【覚りの縁起】

覚りの縁起の真実を知るもろもろの如来は、”縁起とはこのようなものである”とか、”この縁起によってまさしく覚る人がある”とか語ることがある。 しかしながら、覚りの縁起の真実は、実際にはそのように単純なものではなく、微妙なるものである。

さて、そもそも人が真実について勘違いや思い違いをしないのであるならば、かれは敢えて覚りを目指すまでもなくすみやかに覚りの境地に至ることであろう。 そこには、覚りの縁起さえも存在せず、縁起を語る必要もないこととなる。 しかし実際には、人が人と世の真実について勘違いや思い違いをするゆえに、実にそれゆえに覚りの境地に至るのである。 もちろん、勘違いや思い違いによって人は真実を覚るのではない。 勘違いや思い違いがあるにもかかわらず、人は覚るのである。 そして、それがまさしく起きたとき、真実を識る人(=覚者)はそこに確かな覚りの縁起を見て、もしも請われたならばその縁起を語るであろう。

ところで、もし人がものを欲しがるように覚りを望むならば、覚りの境地に至ることはおそらくついにない。 その一方で、人が覚りの境地に至ることを最初から望まないのであるならば、それではかれが覚りの境地に至ることはあり得ないこととなる。 覚りの境地に至る道は、これら両極端の想いに汚されない道である。 それは、いかなる熱意にもよらず、人の正しい熱望によってもたらされる道である。 実に、かれの望ましい望みが、かれを覚りの境地に導き、かれ自身をまごうことなき覚りの境地へと至らしめるものである。 そこには、いかなる前提条件も付帯条件も存在してはいない。 それゆえに、もろもろの如来は、人々が無条件に、無心に、無住なるこころで覚りを熱望することをつねに称讃するのである。

人は、何かがあるゆえに覚りの境地に至るのではなく、何かがないゆえに覚りの境地に至るのではなく、何かをなくすゆえに覚りの境地に至るのでもない。 人は、知りつつ覚りの境地に至るのではなく、知らぬ間に覚りの境地に至るのではなく、知りつつ敢えて何もしないゆえに覚りの境地に至るのでもない。 人は、「人として為すべきそれ」を自ら見い出し、為し遂げて、ついに覚りの境地に至るのである。

覚りの縁起の真実を知りたいと願う人は、縁起ということ(縁起という言葉や名称)にまつわって生じるあらゆることがらから己の心を解放せよ。 なんとなれば、それが縁起の真実を識るための正しい心構えに他ならないからである。 覚りの縁起の真実はこころに知るものであり、それをそのように為し得た者がついに覚りの縁起をその身に体現することになる。 そして、それがまさしくそのように為されたとき、かれはついに為すべきことを為し遂げたのであり、かれの聖求(=真実を真実に求める真実のおもい)は真実に証されたのである。