【再考】

正しい省察も、観(止観)の完成も、発心も、解脱も、すべては再考するところから始まるのである。 人が再考して、しかも道を逸れることが無いならば、かれこそ明知の人であると認められる。 それゆえに、こころある人は、世間のことがらについても、出世間のことがらについても時事に再考すべきである。

人が解脱したならば、かれはもう再考する必要はなくなったことを自ら知る。 しかし、解脱しないうちは、決して油断してはならない。 解脱しない人は、悲しむからである。 もろもろの如来は、この意味において人々が再考に再考を重ねることを称讃するのである。

再考とは、『どうしてもいけなければどうするか』の立場に立ってものごとを見ることに他ならない。 再考とは、人がそれ以前において「こうするしかなかった」とか「こうならざるを得ない」とか「これでよいのである」とか「これ以外にはない」とか「なるようにしかならない」とか「そのうちに」とか考えていたことを、「そうではない」と考え直すところから始まる。 人は、実にこのようにして覚りの境地に至る道の節目(発心および解脱)を迎えるのである。 この崇高なる道の節目は、いかなる段階の説にも従わないものであるが、人がそれを迎えたとき、それはまさしくそのように彼の身に起こったのであると知られることになる。

他人の過失をどのように見ても、正しい再考の切っ掛けとはならない。 しかしながら、自らの行為の過失を識るならば、かれは功徳を生じる利益(りやく)を得たのである。 かれのその再考は、空しからざるものであった。 けだし、再考とは、善悪を超越する機縁となるものでなければならず、そのようなものであり、それは安穏(=ニルヴァーナ)に役立つものであるからである。

こころある人は、時事に再考を重ねて再考することの真髄に達し、まごうことなき解脱の機縁を生じてついに解脱し、無住なるそのこころ(=真如)を我が身に体現せよ。