【他人事ではない】

人を思いやる心の根底にあるものは、「他人事(ひとごと)ではない」という気持ちである。 かれはこのとき、有縁の衆生に対して慈悲観を行なっているのである。

そして、もし人が、無縁の衆生に対して思いやる心を起こすならば、かれはついに観を完成するに至るであろう。 なんとなれば、人を思いやる無心の心(=一切の想いを離れた心)こそが、平等心に他ならないからである。

それゆえに、およそ道を志す者は、世間の何に触れても自ら当事者であるべきである。 縁が有ろうと無かろうと、それを他人事であると考えてはならない。 しかしながら、ことに臨んで当事者たらんとしてもどうしても当事者になれないことを知ったとき、かれはついに想いの真実を理解することになる。 それは、想いを次のように理解することと等価である。

○ ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。

しかし、闇雲に当事者になろうとする者は、心が想いに縛り付けられてしまう。 それでは、想いの真実を理解することはできない。 人が、他人事ではないという想いによって当事者たる道を見いだし、しかも心が想いに縛り付けられなくなったとき、そのときにこそかれは一切の想いを超克することになる。 かれは、ついに心を想いの縛め(=識別作用)から解き放ったのであり、すでに一切から解脱している。

こころある人は、自ら為す観によって想いの真実をまさしくこのように理解し、円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。