【果報】

人は何か特定のことがらを為し遂げて、それによって覚りの境地に至るのではない。 かといって、人は何も為さずして、その為さないことによって覚りの境地に至るということもないのである。 真実は、覚りの境地に至る人というのは、覚り以前においてさえそれを為し、ついに為し遂げて、覚りの境地に至るのである。 もちろん、かれは覚り以前においては解脱していない。 しかしながら、かれは、覚りの境地に至ったときにまさしく解脱し、解脱したことによってまごうことなき覚りの境地に至るのである。 そこには、いかなる因果(=因果律)も認められない。 けだし、覚りは因果ではなく因縁によって起こることであるからである。

たとえば、知恵の輪が解けたとき、人は感動にひたるものである。 しかしながら、ある人が確かに知恵の輪を解いた(外した)のに、知恵の輪を解いたという感動を生じなかったとするならば、それではかれは知恵の輪を解いたとは言えない。 かれは、ただ知恵の輪のそれぞれのピース(部品)を分離したに過ぎないからである。 知恵の輪を解いたときには、必ず感動を生じなければならない。 なんとなれば、知恵の輪を解くというのはそう言うことであるからである。 まさしく知恵の輪を解いた人は、それがなぜ「知恵の輪」と称されるのかを知ることになるであろう。 ところで、そもそも人は知恵の輪を解くという手続きによって、感動するわけではない。 しかしながら、人が知恵の輪を手続き的に解いたとしても、そのときに確かな感動を生じたならば、かれはまさしく知恵の輪を解いたと言えるのである。 なんとなれば、感動が生じたというその事実が、まさしく知恵の輪を解いたことを雄弁に語っているからである。 つまり、知恵の輪でさえも、分離したという事実(因果)ではなく、感動を生じたということ(因縁)によって知恵の輪として完成するということである。 強いて言えば、覚りの因縁もそのようなものであり、覚りは因果ではない(つまり手続きによって決定論的にもたらされるものではない)と知られるのはそのような意味においてなのである。

ゆえに、円かなやすらぎを目指す人は、果報ということに決してとらわれてはならない。 それにもまして、行為によって覚りがもたらされるなどと考えてはならない。 こころある人は、人を苦しめ悩ます順逆の想いを捨て去り、善悪の軛を離れ、因果の網を脱して、まさしくそのようにして覚り以前においてもやすらぎに住する人であるべきである。

業(カルマ)は、人の行為の帰趨である。 業(カルマ)が、人を苦悩させ心を苛むものである。 その一方で、(覚りの)果報は人の行為の帰趨ではない。 真如の現れとして(覚りの)果報がもたらされ、かつ果報があるときにはまさしく真如が認められるということであるからである。

覚りの機縁そのものが覚りを生じ、覚りがその(覚りの)機縁を明らめるのである。 そして、人の覚りがそのようにあるということそれ自体が、法(ダルマ)である。 すなわち、自ら浄めた浄らかな道を、平らかに歩む人が、きわめて浄らかな智慧を生じて覚りの境地に到達するのである。