【見事に説かれた言葉】

たとえそれが、生き身の如来が説いた真実の言葉であるとしても、それを聞いて歓喜するならば、それでは理法を理解したとは言えない。

その一方で、たとえそれが衆生がふと口にした何気ない言葉であったとしても、世に稀有に発せられる「その言葉」を聞いた人が、こころに歓喜して、聞いて心が晴れて、さらなる教えを聞こうと熱望するに至ったならば、かれはことわりにしたがっているのであると認められる。

真実の言葉は、誰が口にしたかではなく、(ことに臨んで)何が語られたかによってそれがそうだと知られるのである。 それゆえに、道を求める人は、聞き知ったその言葉がまごうことなき如来の言葉であったとしても、(一々の)その言葉そのものにこだわってはならない。 言葉を、歓喜して有り難がってはならぬ。 (しかしもちろん、言葉を軽んじてはならない。)

真実はつねに平易に語られるものである。 しかしながら、真実が述べるところのもの(=真理)を識り究めることは容易なことではない。 ただ、心構え正しき聡明なる人だけが、真実の教えを真実のままに聞き、こころに理解(=領解)するのである。

こころある人は、ととのえられつつある心をさらにととのえ、平らかな心をさらに安んじるその言葉(=真理の言葉,=法の句)をこそ聞き及び、自らのあり得べき省察の機縁と為し、それによって何かをてらうことなく、また誰かにへつらうことなく、順逆の念を離れ、勝敗を捨て、優劣を判じる根底のそれ(=執著)を滅して、自他を苦しめる一切の争いを超克せよ。

それがそのように人の身に体現されたとき、見事に説かれた言葉はまさしく見事に説かれたのである。