【公案の功罪】

いわゆる公案を解くことによって、覚りの境地に近づく人があるのは確かなことである。 なんとなれば、公案に取り組むことは観(=止観)の一方法であると認められるからである。 実際、世にはよくしつらえられた見事な公案が確かに存在している。

しかしながら、人は公案を解くことによって覚りの境地に至るとは断定的には言えないことである。 けだし、人が覚りの境地に至ることは、一切の手続き的なことがらを離れた、不可思議なる因縁によっているのであると知られるからである。 そしてまた、世に広く狭く知られたさまざまな公案の中には観の役には立たないもの(つまり公案とは言えないもの)も多く含まれており、道の歩みの頼りにはならない。

それゆえに、聡明な人は、公案によって覚りの境地に至るなどと考えてはならない。 たとえ取り組んだその公案が、観に役立つ、公案と呼ぶに相応しいものであったとしても、人が公案を解くということにこだわってあり得べき観(=止観)を為さないのであるならば、それらはすべからく人を迷わせる悪魔の説と化してしまう。

不滅の安穏(=ニルヴァーナ)を求める人は、知識によらず明知によって道を見極め、学問によらず学識によって真実を知り明らめよ。 修行者は、人としてのあり得べき観を為し、自分ならざる何ものにも頼ることなく、他ならぬ自らによって自分自身を円かなやすらぎへと至らしめよ。 たとえ、公案を縁として覚りの境地に至った人がいることを耳にしたとしても、だからといって公案が修行に役立つ特別なものであると見なしてはならない。 公案へのこだわりを離れることそれ自体が、最後の一関たる究極の公案の一つの真意に他ならないからである。