【仏智】

人智は、実に使い古された知見のエッセンスであり、使い廻しの利くものである。 人智は、人々に感動を呼び起こすが、それがいかに鮮烈で味わい深いものであるとしても、それを味わった人が聡明であってその味わいの真相を能く省察・考研するならば、それはかつて味わったことのある別の感動と同じ味わいであることに気づくであろう。 また、かれは、人智にもとづいて起こるいかなる感動の味わいも、時間とともに必ず褪せ落ち、またくり返し味わうことによってもその感動は次第に麻痺して効力が失われるものであることを知る。

しかしながら愚鈍な者は、(人智の)感動の味わいが薄れ、失われるにつけ、さらによりいっそう鮮烈な感動を諸処に求めて執著を起こしてしまう。 かれは、人智の現れを渇愛しているのである。 それゆえに、かの者の世の経めぐり歩きは、逸れてよろめき歩く結果とならざるを得ない。

その一方で、仏智は人それぞれの機縁によってそれぞれがそれぞれにただ一度だけ出現するものであり、決して使い廻しすることはできないものである。 それゆえに、仏智はつくられざるもの(=人智ならざるもの)であると知られるのである。 仏智は、それを識った人に特殊な感動を生ぜしむるが、それは鮮烈さや味わい深さなどというような世間一般の感動の特質を持たない。 仏智の現れは、微妙な余韻の味わいに近い。 仏智の現れは、かれがかつて到達したことのない、決定的なこころの安定統一と気持ちの晴れやかさとをもたらす。 このようにして、仏智は、それが正しく理解されたときには、それがそれ以前に味わったいかなる感動の味わいとも違う、あらゆる感動の味わいを超えた最上の味わいであることを人に知らしめるのである。

ところで、仏智は使い廻しこそ出来ないが、その感動の味わいは薄れず、褪せることがなく、それを味わった人を目覚めさせ、かれの世の経めぐり歩きを終局へと導く。 かれの一切の苦悩は、そのときを境に終焉をむかえることになる。 かれはすでに覚りを開いた覚者であり、たった一つの仏智を識ったことによって無量の仏智を知り究め、それを駆使して世を遍歴する存在となったのである。 かれにとって、人智はただ人智に過ぎないものであると認知され、それ以上のものであるともそれ以下のものであるとも認められない。 かれは、人智を決して軽んじることはないが、仏智は人智とは違うものであることをすでに知っている。 それゆえに、かれは、世間で見聞きするいかなる知見にもこだわらず、こころは浄らかであって汚されない。

こころある人は、目を澄ませ、耳聡くして、想いを落ちつけ、自己をあれこれと妄想することなく、世間を平らかに見て、よく気をつけて世を遍歴し、人と世の真実を見極めよ。 そして、世にただ一度だけ現れ出る稀有なる仏智を、たった一つでよいから自らのものとせよ。 それを為し遂げたとき、かれは智慧の真実と、人と世の真相を如実に知って、解脱し、仏智を我が身に体現する人となるのである。