【無住】

無住とは人間の本性のありように他ならない。 それゆえに、人が人と世の真実を見極め、無住なる「そのこころ」を生じてひとの想いのあり得べき帰趨を識り究めたとき、かれはただちに解脱して不滅の安穏(=ニルヴァーナ)に至るのである。

かれはそのとき、法(ダルマ)についてのあらゆる疑惑を払拭し、感受する一切について余計なことを何一つ考えることなく応対することを得て、しかも過ちがなく、心身は安寧に帰し、動揺のよすがを滅し、気持ちは晴れやかであって憂いがなく、かといって歓喜もなく、それまでのことはいざ知らず、それ以後については一切の煩悶を離れて、極めて浄らかな智慧を生じ、まとわりつく汚れと塵は脱落し再び汚れを纏うことも塵を多くまき散らすことも無くなり、根本の無知を離れ、一切の争いを捨て去り、根底の苦悩を脱れて、それゆえに苦悩のそぶりを見せることはなく、また人に苦悩をさとられることもない境地に至り住する。

これらのことは、人が無住によって現出した智慧を無住なるそのこころによって見いだすことによって達成されることである。 それゆえに、人が覚りの境地に至る瞬間においては、かれのこころはいかなる何にも依拠しておらず、いかなる何にも覆われていない。 そして、それをそのように為し得たのはひとえにかれが自ら無住に住し得たことによっている。

かれはそのとき、それまでに聞き知ったいかなる言説にも概念にも観念にも依拠しておらず、いかなる想念にもとらわれておらず、それ以前に言葉として多く少なく知り覚えた一切の教えに関して極わずかでさえも依拠していない。 それゆえに、かれの決心と自信は揺るぎないものとなる。 かれは、おののかず、たじろかず、おそれない。 かれは、真実の理法を説き示した如来の言葉にさえも依拠することなく、無住なるそのこころ(=真如)を自らによって現出した人なのである。

無住とは、かくの如く、いかなる何にも全く依拠しない(立場を超えた)立場を指していう言葉であり、それゆえに無住は<無住>と名づけられる。 実に、無住を知るものだけが<無住>の真実を知っている。

こころある人は、ことわりをこころに知って、ことに臨んだときには、いかなる経典にも、論典にも、如来の言葉にさえも依拠してはならない。 ただ自らに依拠して、真実のことわりを体現せよ。 世に存するすべての理法の言葉は、聞いて、覚え、こころに理解したならば、すみやかに忘れるべきものなのである。

人は、如来がいようがいまいが、自ら無住なる智慧を開いて覚るのである。 人は、自らにのみ依拠した人にのみ顕現するその教え(=諸仏の智慧)を自らによって識り究めて、他ならぬ自らが仏の立場に立つのである。 かれは、ついに仏の真実を知り、自らの本性が仏そのものであることを知ることになる。 それは、無住なるこころによってのみもたらされる功徳である。 覚りを望む人はすべからく、無住なる「そのこころ」を、自らの心の根底に見いださねばならない。 もろもろの如来は、その真実を如実に知って、それをそのように語るのである。