【ことに臨んだそのとき】

ここなる人が聡明で、心構え正しくあるならば、かれがことに臨んだそのとき、まさしくそのときに彼は<発心>する。 あるいはまた、かれがすでに<発心>しているならば、まさしくそのときに彼は<解脱>して覚りの境地に至るのである。

しかしながら、かれ自身まさしくことに臨んでいるとき、自分がまさにことに臨んでいるのであるとかれ自身が認知することは無い。 また、そのときそれを目撃した他のいかなる人も、それがかれがことに臨んだそのときであると識ることはできないのである。

しかしながら、ことに臨んだその後において、かれがそれをそうだと自ら識ったのであるならば、あのときこそ自分がまさにことに臨んだのであるとかれ自身が振り返って知ることとなり、それはまさしく真実の知見である。 なんとなれば、かれはそれによって<発心>し、あるいはまた<解脱>するゆえに、それを自ら証することになるからである。

ところで、それを知る人がことに臨んだそのときのことを振り返ったとき、かれは次のように思う。

・ そのときがそのときである必要も必然も無かった
・ その事がその事である必要も必然も無かった
・ その相手がその相手である必要も必然も無かった
・ そのことに直に連なるすべてのことがらがそのようで無ければならなかったのだという必要も必然も無かった

しかし、その一方で、かれは次のように思う。

・ そのときがそのときでなければならなかったのであると思わざるを得ない
・ その事がどうしてもその事でなければならなかったのであると思わざるを得ない
・ その相手がその相手でなければそうはならなかったであろうとと思わざるを得ない
・ そのことに直に連なるすべてのことがらがそのようで無ければそれは決して起こらなかったであろうと思わざるを得ない

なんとなれば、これらのことはすべからく(覚りの)因縁にもとづいて起こることであるからである。 ゆえに、この覚りの因縁を<覚りの因縁>と名づくのである。 けだし、因縁とはそのようなものなのである。 この微妙さゆえに、もろもろの如来は、ことに臨んだそのときのことを敢えて語らないのである。

こころある人は、如何にしても認知することのかなわない<ことに臨んだそのとき>に臨んで、まさに<ことに臨んだ人>となり、まさしく<ことに臨んで為すべきことを為し終える人>となって、発心し、また解脱を生じ、法(ダルマ)をその身に体現する人となれ。