【法(ダルマ)とその領解】

この世に人がある限り、法(ダルマ)は世に出現し続けるであろう。 けだし、法(ダルマ)は、人をあり得べき帰趨たる『覚りの境地』へと導く唯一のものであり、それが誰にとってもつねにそのように起きるという事実が、法(ダルマ)の確かな存在を世に知らしめるものであるからである。

人は、法(ダルマ)によって解脱し、人を超えた存在になる。 そこに至るならば、人は一切の争いから離れ、苦悩を終滅せしめるのであると知られる。 それが、人の身にそのように起きることを諸仏はつねに願っている。 その諸仏の願いが、世にまごうことなきかたちで現れたとき、まさしく法(ダルマ)が顕わになるのである。 それは、人の口から言葉の形をとって現れ、縁有る人に理解を超えた理解と、懺悔と、決心と、(三種の)明知とを生ぜしむ。

法(ダルマ)は、何処にでも出現するものではないが、世間のどこからでも出現し得るものである。 それが世に出現したとき、「それ」を知る人はそれがそうだと識り、「それ」を未だ知らぬ人はそれによって「それ」を知るものとなる。 そして、それがそのように起きるかどうかは、その場に立ち会った人それぞれの因縁によっている。 ゆえに、この因縁を<覚りの因縁>と名づく。

法(ダルマ)は、この世に(生き身の)如来がいるゆえに世に現れ出るのではない。 法(ダルマ)は、この世に如来がいようがいまいが世に出現するものである。 なぜならば、法(ダルマ)は善知識によって世に出現し、善知識を世にもたらし、善知識の実在を世に示し、善知識によって<善知識>が世に出現するのであるという法(ダルマ,=<正法>)の真なるありようを知らしめ、それを知った人を虚妄ならざる安穏(=ニルヴァーナ)へと導くのであるからである。

人は、法(ダルマ)を理解して解脱するのではない。 しかしながら、人が法(ダルマ)を理解してまさしく理解したとき(=領解)、人は解脱する。 解脱は、理解を超えた理解によってもたらされるのであるからである。 それゆえに、こころある人は、法(ダルマ)を理解するということにこだわってはならない。

人は、いかに精緻に理法を聞き知っても、それによって解脱することはないであろう。 しかしながら、人が多く少なく理法を聞き知って、如来が理法を説くそのわけを自らのこころに知ったとき、如来が説く一切の理法を理解・弁別することを得、ついに解脱する。 かれは、理法の真実を真実に理解することを得たのである。 かれは、すでに世間を出て、人と世の真実をくもりなき目で如実に見るものとなったのである。 法(ダルマ)が、このいつわり無き究極の結果をつねに生ぜしめるゆえに、法(ダルマ)は理法として語られ得るのであり、それゆえに<理法>と名づけられる。 しかしながら、理法が、それによって人を解脱せしめるものではない以上、人はたとえ(生き身の)如来が説く<理法の言葉>を直に聞き知ってもその理法の言葉に、またその他さまざまに聞き知ったいかなる理法の言葉にもこだわってはならない。

このようにして、人があらゆるこだわりを離れ得たならば、人は法(ダルマ)を我が身に体現して、法(ダルマ)の真実を識り及び、同時に一切の理法を領解するものとなる。 けだし、人は一切のこだわりを離れることによってのみこだわりを離れることを得、ついに一切から解脱するのであると知られるからである。

こころある人は、法(ダルマ)や理法(の言葉)にこだわることなく、自ら法(ダルマ)を体現して目覚め、まさしく法(ダルマ)を知るものとなれ。