【覚悟】

もし人が、覚悟するならば、かれはただちに覚りの境地に至る。 なぜならば、覚悟とは一大事因縁によってもたらされる解脱の認識の一つ(=解脱知見)に他ならないからである。

 『それ相応の覚悟がなければ、人は覚ることができない』

覚りの真実を知らぬ者は、このように言い放って自他をけしかける。 しかし、真の覚悟とは次のことなのである。

 『覚悟とは、ことに臨んだまさにそのときに、その人が発したそれを知って、たとえそれが最高のものでなかろうともそれを知ったことでこの人生をよしとし、その知り得たそれによって只今から死ぬまで生きていくのだという自分に恥じない揺るぎなき決心である』

もちろん、その知り得たそれが法(ダルマ)でないならば、人が解脱することはあり得ない。 しかしながら、こころある人は、まさしく法(ダルマ)を知ることとなり、まさしく法(ダルマ)を知ったとき、上のような覚悟を生じるのである。 そして、それがそのように起きることそれ自体が、法(ダルマ)である。

したがって、覚悟は、前もって為されることがらではない。 すなわち、覚悟とは、

◇ なにか壮絶な決意をすることではない
◇ もう死んでもよいと思うことではない
◇ いつ死んでも構わないと思うことではない
◇ たとえ見苦しくとも死なない道を選ぶ決意ではない
◇ 生き死にに無頓着になることではない
◇ 生き死にに情をからめることではない
◇ 生き死にになにか意味を持たせることではない
◇ 自分さえそこに居なければよいのだと思うことではない
◇ 自分がそこに居てもよいのだと居場所を見い出すことではない
◇ 覚れなくともよいと(最初から,その時点から)思うことではない
◇ 覚りなどどうでもよいと思うことではない
◇ 覚りの境地など実は無いのだと思い切ることではない
◇ たとえ死ぬまでに覚ることができなかったとしてもそれでもよいと思うことではない
◇ 他の人が覚りの境地に至る補助に自分がなればそれでよいと思うことではない
◇ 覚りの境地に至ることを目指して行なう修行をしていることで満足することではない
◇ 覚りの境地に至ることを目指して行うべき修行を見いだしたことで満足することではない
◇ 誰でも覚りの境地に至ることができるのだと確信したことで満足することではない
◇ 覚りの境地に至った覚者(=如来)の存在を知って満足することではない
◇ 如来と何某かの縁があったことを知って満足することではない
◇ 如来が説く理法の言葉を何となく理解し得たことで満足することではない
◇ 如来の振る舞いを(身近に)感じ得たことで満足することではない

のである。

聡明な人は、自他をけしかける善からぬ言葉と邪な想いとを離れ捨て去って、ことに臨んだそのときにこそ真実の覚悟を為し、為し遂げて、法(ダルマ)を我が身に体現せよ。