【正法】
正法とは、法(ダルマ)についてそれ以外には解釈しようのない言葉で綴った最も簡潔な文章のことである。それゆえに、正法は、それを真実に理解すること
ができたならば、かれをして直ちに覚りの境地に至らしめるという働きをもっている。つまり、人は聞き知った正法によって覚りの境地に至るのである。以下
に、いくつかの代表的経典に記されている正法を列記する。これらのどれによってでも、人は覚りに至る得る。
● 諸仏世尊はただ一大事因縁によってのみ世に出現したまう(法華経) → 方便品第二
〔諸佛世尊唯以一大事因縁故出現於世〕
● まさに住するところなくして、しかも其の心を生ずべし(金剛般若経)
〔応無所住而生其心〕
● 衆生を完成するのに随って、その仏国土が浄らかになる(維摩経) →
詳細は「直き心」
● 真実の教え(正法)をしっかりと身につけること自体が、真実の教えである(勝鬘経) → 詳細は「六波羅
蜜」
● 諸々の尊敬さるべき人が、安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。(スッタニパータ)
● 尊敬さるべき真人たちに対する信仰を財とし、安らぎに至るための教えを聞こうと願うならば、聡明な人は(ついには)いろいろのことについて明らかな智
慧を得る。(ウダーナヴァルガ)
● ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。 ── このように理解した者の形態
(rupa)は消滅する。 けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。(スッタニパータ)
● ひとは、恐怖のゆえに、優れた人のことばを恕す。 ひとは、争いをしたくないから、同輩のことばを恕す。 しかし自分よりも劣った者のことばを恕す人
がおれば、それを、聖者らはこの世における〈最上の忍耐〉と呼ぶ。(ウダーナヴァルガ)
● ── そなたらのどの詩も、すべて、順次みごとにとなえられた。 しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。 信仰をもって(与えること)が、実にいろいろ
と讃めたたえられた。 しかし、(与えること)よりも「法の句」のほうがすぐれている。 昔の善き人々、それよりも昔の善き人々も、智慧をそなえて、ニル
ヴァーナにおもむいた と。(サンユッタ・ニカーヤ1)
● ── そなたらは、すべて、順次みごとに詩をとなえた。 しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。 ただ、善き人々と共に居れ。 善き人々とだけ交われ。
善き人々の正しい理法を知ったならば、すべての苦しみから脱れる と。(サンユッタ・ニカーヤ1)
● ── 無明が頭であると知れ。 明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。(スッタニパータ)
● 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。 ── このことわりを他の人々は知っていない。 しかし、このことわりを知る人々
があれば、争いはしずまる。 ── (ダンマパダ)
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【六祖慧能による正法(六祖壇教から)】
中国の禅宗の六祖慧能は、間違いなくブッダである。 以下に、六祖慧能が説く正法を記す。
→ 六祖慧能
【補足説明】
覚りの境地は、いかなる哲学的見解の帰結でも無く、また人類が作為したいかなる宗教的教義に基づく規範行動でもない。もちろん、覚りの境地は本人の単な
る思い込みでは無いし、またいろいろな精神障害の結果によってもたらされる病的状態を指すのでもない。なんとなれば、正法の正しい理解によって自らに体現
される覚りの境地は、すでにそれを為し遂げた人にとって如実に体験される不滅のやすらぎであり、虚妄ならざるものであるからである。この円かなやすらぎ
は、一切の煩いと苦悩とを離れている。この円かなやすらぎは、一瞬たりともとぎれることなく体現されるものである。この円かなやすらぎは、いかなる継続的
努力(いわゆる悟後の修行)をも要せずに不断に持続するものである。この円かなやすらぎは、無上のやすらぎであると覚知されるものである。
[真理]
正法の存在、出現、およびその利益(りやく)について述べた真実の言葉が真理である。
→ 真理
[修行法]
人々の意に反することであろうが、覚りに至る固定的な修行法などは実は何一つ存在していない。しかしながら、観を為し、観の完成を見ることは人の覚りに
役立つものであることは確かである。
→ 観
→ (久松真一氏の)基本的公案
→ (SRKWブッダの)公案: 一円の公案,(SRKWブッダ版)
黒い鏡の公案
→ (準)公案: 預流果