【真理】

 真理とは、法(ダルマ)が世に現れる様とその威力について述べた言葉である。人は、真理に則って解脱し、この円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至るのである。以下に、いくつかの代表的経典に記されている真理を列記する。

○ 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。(スッタニパータ)

○ 真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸に至るであろう。(ダンマパダ)

○ 真理が正しく説かれたときに、真理を見とおす人々は、全く死の領域を超えて、彼岸に至るであろう。(ウダーナヴァルガ)

○ 安定している堅固なこの道は、ただ〔口先で〕語るだけでも、あるいはまた一方的に聞くだけでも従い行くことはできない。 心をおさめて、〔この道を歩む〕思慮ある人々は、悪魔の束縛から脱するであろう。 思慮ある人々は、世のありさまを知って、実に業をつくることがない。 思慮ある人々は、よく理解して、縛めを解きほごし、世の中にあって執著をのり超えている。(サンユッタ・ニカーヤT)

○ ひとびとは因縁があって善い領域(天)におもむくのである。ひとびとは因縁があって悪い領域(地獄など)におもむくのである。ひとびとは因縁があって完き安らぎ(ニルヴァーナ)に入るのである。このように、これらのことは因縁にもとづいているのである。(ウダーナヴァルガ)

○ 孤独〈ひとりい〉の味、心の安らいの味をあじわったならば、熱のような悩みも無く、罪過も無くなる、──真理の喜びの味をあじわいながら。(ウダーナヴァルガ)

○ およそ苦しみが生ずるのは、識別作用に縁って起こるのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということは有りえない。(スッタニパータ)

○ 識別作用が止滅することによって、名称と形態が残りなく滅びた場合に、この名称と形態(nama-rupa)とが滅びる。(スッタニパータ)

○ 内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このように気をつけて行っている人、の識別作用が止滅するのである。(スッタニパータ)

○ 身体を壊り、表象作用と感受作用とを静めて、識別作用を滅ぼすことができたならば、苦しみが終滅すると説かれる。(ウダーナヴァルガ)

○ 見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる。(ウダーナヴァルガ)

○ この人が力のある者であっても、無力な人を堪え忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、常に(同情して)忍んでやらねばならぬ。── 力のある人が、他人からののしられても堪え忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、常に(同情して)忍んでやらねばならぬ。(ウダーナヴァルガ)

○ 悪いものは善い姿をもって、憎らしいものは愛しいもののすがたをもって、苦しみは安楽のすがたをもって、放逸なる者どもを粉砕してしまう。(ウダーナヴァルガ)

○ ウダヤよ。愛欲と憂いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨をやめること、平静な心がまえと念いの清らかさ、── それは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、── これが無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。(スッタニパータ)

○ 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見に固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。(スッタニパータ)

○ 天の蔵・人の蔵・梵天の蔵なる一切の蔵を弁別して、一切の蔵の根本の束縛から離脱した人、── このような人がまさにその故に(巧みな人)とよばれるのである。(スッタニパータ)

○ もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それでは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。(スッタニパータ)

○ (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。(スッタニパータ)

○ (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。彼が何ものかを知りあるいは見ても、執著することがない。彼は欲を貪ることもなく、また離欲を貪ることもない。彼は(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。(スッタニパータ)

○ 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものはそれとは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。(スッタニパータ)

○ なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる者どもには、汚れが増す。{その一方で、}常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、もろもろの汚れがなくなる。(ダンマパダ)

○ なすべきことに努めはげむことを賢者はつねにほめたたえる。つとめはげむ賢い人は、〈次に挙げる〉二つのことがらを極めてよく把捉している。一つは現世に関する(善き)ことがらであり、他の一つは来世に関する(善からぬ)ことがらである。思慮ある人は、それぞれのことがらを見きわめてさとるから、〈賢明な人〉と呼ばれるのである。(ウダーナヴァルガ)

○ 実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みを以てせば、ついに怨みのやむことがない。堪え忍ぶことによって、怨みはやむ。これは永遠の真理である。(ウダーナヴァルガ) {やむ:息む}

○ わたくしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。(ダンマパダ)

○ (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。── かれは安らぎに近づいているのだが。(スッタニパータ)

○ 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」(スッタニパータ)

○ 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>と呼ぶ。(スッタニパータ)

○ ── 修行僧たちよ。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。── (スッタニパータ)

○ 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、── それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。またそれらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と反対である。他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々は、ここに迷っている。(スッタニパータ)

○ 大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。(ダンマパダ)

○ 覆われたものに、雨が降り注ぐ。開きあらわされたものには、雨は降らない。それ故に、覆われたものを開けよ。そうしたならば、それに雨は降り注がない。(ウダーナヴァルガ)

○ 不生なるものが有るからこそ、生じたものからの出離をつねに語るべきであろう。作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。生じたもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、──それは喜ぶに足りない。それの出離であって、思考の及ばない境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった境地である。(ウダーナヴァルガ)

○ ニルヴァーナによりニルヴァーナを知り、ニルヴァーナを思惟せず、ニルヴァーナにおいて思惟せず、ニルヴァーナより思惟せず、このニルヴァーナが自分のものとは思惟せず、ニルヴァーナについて喜ばない。(中部経典)

○ <修行僧>が人のいない空家に入って、心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。かれは、個人存在を構成している諸要素の生起と消滅のことわりを正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとって喜びとなり、また悦楽なるものを、体得するに至る。(ダンマパダ)

○ どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。(ウダーナヴァルガ)

○ 神が問う :「あなたは、生ける者どもの解脱、解き放たれること、遠ざかり離れることを、どうして知っているのですか」  釈尊が答える :「『歓喜の愛に基づく生存が尽き、表象や意識作用も尽きるが故に、感受作用が止滅するが故に、静止がある』 友よ、私は、生ける者どもの解脱、解き放たれること、遠ざかり離れることを、このように知っているのです」


注記) 上記は、中村元氏訳による