【六祖慧能が言う覚りの素質】

 中国の禅の六祖-慧能ブッダは、六祖壇教において覚りの境地に至る人の素質について次のように述べています。


*** 引用(六祖壇教の和訳から)

 善知識よ。もし心の最も深いところにある法界に入って、般若三昧に入ることを望む人は、まさに般若波羅蜜の行を修めるべきである。そして、もし{覚りの境地に至ることを目指す人が}一冊の金剛般若経を{こころに}受持するならば、まごうことなく見性することを得て、般若三昧に入ることは間違いないことである。そのような人の功徳が量り知れないほどのものであることを、{覚りの境地に至ることを目指す人は}正しく理解すべきである。このことについては、あらゆる経典のあちらこちらで述べられているのであるが、それでもそのことを語り尽くすことはできないほどである。しかし、これこそが、{覚りの境地に至るための}最上の乗り物であり、偉大なる智慧をこころに受持するすぐれた素質の修行者のみを対象として解き明かされる{根本の}教えに他ならないのである。

 {しかしながら、覚りの境地に至ることについて}劣った素質しか持たない人は、例えこの上なくすぐれた{根本の}教えを聞いたとしても、それを信じることはできないであろう。これは何故であろうか。それは譬えば、天上の大竜が大雨を降らせるようなものだからである。{つまり、}もし天上の大竜が大雨を地上に降らせると、町や村や里は一つ残らず押し流されて、水面に草の葉を浮かせたようになってしまう。しかしながら、大雨を大海に降らせるならば、大海は増すことも減ることもないのである。それと同様に、偉大なる乗り物をこころに受持する人が金剛経の言葉を聞くと、{直ちに}こころが開いて真理に目覚めるのである。そして、そのように目覚めてみると、自らの本性として般若の智慧が備わっていることが分かり、そのようにして自らに顕現する智慧であらゆるものを観照することを得て、そこに{世間的な、余計な}言葉を挟む必要などないことを知るのである。そして、先に述べた雨水の譬えにしても、初めから雨水が天上にあるのでは無いと知るべきである。雨水は、天上の竜王が江海の中にあって身を以て水を引きあげ、それを一切衆生に、一切の草木に、一切の心あるものに、一切の心無きものに対して、残らず潤いを与えるものだからである。また、諸々の川の流れは、最後には皆海洋に入り込むのであるが、大海は数多の川をすべて受け入れて、合わせて一体とするのである。人々(衆生)の本性たる般若の智慧も、それと同様である。素質の弱い人がこのような根本の教えを聞くのは、ちょうど地上の根の弱い草木が雨を浴びるようなものである。そのような根の弱い草木が、もし大雨をひとかぶりすると、皆自分自身に押し倒されてしまい、生長することは出来なくなる。素質の弱い人も、それと同様である。

 {ただし覚りの素質の弱い人も}般若の智慧をこころに受持しているという点においては智慧すぐれた人とまったく違いはない。それにもかかわらず、どういうわけで素質の弱い人は法(ダルマ)を聞いても覚りの境地に至らないのであろうか。そのわけは、そのような人は間違った考え(邪見)が幾重にも真理をおし隠していて、煩悩の根がその人の心に深く根ざしているためなのである。それはちょうど、厚い雲が太陽をおし隠したようなものである。風が雲を吹き払ってくれない限り、太陽は姿をあらわすことができない。般若の智慧もそれと同様である。一切衆生には、自ら心に生じた迷妄{や妄執}があるゆえに、{自分でもそうとは知らずに}外面を取り繕うような修行を為して仏を求めるだけであり、さっぱり自らの本性に目覚めないのである。つまり、素質の弱い人は、根本の教えを聞いたとしても、それをとても信受することができないで、外面を取り繕ってしまうのである。{しかしながら、そのような人であっても}もし自らのこころに嘘いつわり無く、自らの本性に則して常に正しい考えを起こすことが出来さえすれば、煩悩に翻弄され、塵汚れにまみれた衆生といえども、皆直ちに覚りの境地に至ることは間違いないことなのである。{正しい考えが起きる}その様は、大海が大小のあらゆる川の流れを受け入れて一体とするようなものである。つまり、そのようなあり様こそが智慧そのものの作用なのだと確かに知ることが見性に他ならないのである。そして、そのような人は、心の内外のいずれにも依拠することがなく、{あらゆる局面において}かくの如く来たれるもかくの如く去るも自由であり、またあらゆる執著をよく取り除き、{それゆえに}何に対しても真実に通じることにおいて障碍が無い。もし心がこのように常に働くのであるならば、それは般若波羅蜜の教えとまったく同じなのである。

*** 引用おわり

 注記) { }内は、当サイトの起草者が付与。


[補足説明]
 慧能ブッダは、金剛般若経を聞いて覚りの境地に至った人であるゆえに、上記の説明は随所に金剛般若経を引き合いに出しつつ述べていますが、その部分は他の正法を含んだ経典(例えば法華経や維摩経、勝鬘経など)と、それらの経典で用いられている等価な仏教用語に置き換えて読んでも差し支えありません。