【六祖慧能】

 中国の禅の六祖-慧能ブッダは、自ら著作した六祖壇教において次のように述べています。

*** 引用(六祖壇教の和訳から)

 善知識よ、われわれの法門は、昔からずっと無念をおしたてて宗旨とし、無相を主体と為し、無住を根本としている。無相とはどういうことかというと、無相とは相の中にいて相を離れるのである。無念とは念じつつしかも念じないのであり、無住とは人間の本性のありようである。一瞬一瞬のこころが如何なるものにも依拠しないのであれば、過去より現在そして未来へと、念はたえず正しく働いて途切れることはない。もし一瞬でも正しい念が途切れたら、法身はすぐさま肉身を離れてしまうであろう。正しいこころの働きは、どんな時もどんな存在に対しても依拠しないことによって成り立っている。もし一瞬でも何かに依拠して念じるならば、こころの働きも何かに依拠したものとなり、こころは何ものかに束縛されたものとなってしまう。どんな存在に対しても依拠しないでいられるのであれば、それこそが束縛のないこころに他ならない。それゆえ、無住を以て根本と為すのである。

 善知識よ、外に対して一切の相を離れることを無相というのである。無相になることさえできれば、われわれの本性は本質的に清浄でいられるのである。それで、無相が主体だと分かるのである。また、どんな境界にもこころが汚されぬ様子を無念とよぶ。それは、自分のこころのうちですべての境界を脱け出ているだけでなく、あらゆるものに対してそもそも念の起きることがないことをいうのである。しかし、無念はこころに何も思いうかべないということではない。つまり、こころのうちから念がすべて締め出されてしまうというのではいけないのである。もし、こころをそのように閉ざしてしまうならば、うつせみの別世界に心を追いやってしまうことになるからである。このことは、道を学ぶものはとくに注意すべきことである。法{ダルマ}を求めるこころを停止させてはならないのだ。自分だけ誤っているならまだしもだが、そのうえ他の人にその過ちをおしつけることがあってはならないからである。そのような人は、自分を見失って真理を見ないばかりか、さらに経文を非難する愚を犯してしまう。そのようなことがないように、無念をおしたてて宗旨とするのである。つまり、自分を見失ったものがさまざまな境界において念を起こし、念ゆえに邪見を起こすに至るから、あらゆる煩悩と妄念がそこへ現れ出てしまうのである。しかし、わが法門は無念をおしたてて宗旨とする。われわれはあらかじめ分別を脱けでていて、念を起こしはしない。もし念が最初からなければ、無念すらおしたてる必要はないのである。ところで、無とは何かが無いのであり、念とは何かを念ずることである。これらは何かと言えば、無とは{名称と形態〔nama-rupa〕にもとづく}二つの相が無いのであり、念とはありのままの本性{真如}を念ずることをいうのである。真如なるものが念の主体であり、念は真如の作用に他ならない。真如なる本性が念を起こすのだから、見聞覚知の心が働きながら如何なる境界にも汚されず、いつも思いのままでいられるのである。その様子について、「維摩経」はいっている。「外にあらゆるものの相を区別しつつ、内には第一義{絶対的な立場}に於いて動じることがない」と。

 善知識よ、わが法門の坐禅は、はじめから心を見つめもしなければ、こころの清浄なことを見守りもせず、また動かぬことをいうのでもない。もし心を見つめよというのなら、心ははじめから虚妄なるものである。虚妄なるものは幻のごときものであるから、見つめようがあるまい。そうかといって、もしこころの清浄なことを見守れというのなら、われわれの本性はそのようなことをせずともはじめから清浄である。{こころが汚れて見えるのは}妄念ゆえに真如が覆い隠されているためである。それゆえ、妄念を離れることさえできれば、本性は清浄であると直ちに分かるのである。本性がはじめから清浄であることを知らないで、心を起こして清浄なものを見守ろうとするならば、かえって清浄という妄念を生みだすことになってしまうであろう。しかして、真実には妄念には{自性としての}根底がないのだから、見守ることの方が妄念であると{わかる人には}わかるのである。そうとは知らない人は、清浄には元々形がないのにかえって清浄という形をおしたてて、いろいろと工夫することが手柄であると考えてしまうのだ。このような考え方をするものは、自分の本性を自らさまたげて、自分の方から清浄に縛られているのである。本当に動かぬ境地に至った人は、どんな人の過失も目に入ることは無いし、そのようにしていられることが即ち本性の動かぬことの証である。一方、自分を見失ったものは、自分の身を投じて善き行いを為すことが無いのに、口を開けばすぐに他人の善し悪しを問うて、まさにそのことによって仏道に自ら背を向けてしまう結果となる。それゆえ、心を見つめ、こころの清浄を見守るのは、かえって道をさまたげる原因であると言わなければならないのである。今、私は君たちに断言しておく。およそわが法門で、坐禅とは何かというなら、この法門では何のさまたげもなく善く行為することを言うのである。すなわち、外にはあらゆる存在に対して妄念の起こらぬのが坐であり、本性に目覚めて乱れぬのを禅と為すのである。禅定とは何をいうのかといえば、外には{人にけとられるような}如何なる相も出さないのが禅であり、内にはこころの乱れぬのが定である。それゆえ、外見にもし何かの相が見えたとしても、内面に本性の乱れがなければ、こころはもとよりそれ自から清浄であり安定していると考えてよい。つまり、縁によってさまざまな境界と接触するゆえに心に乱れを生じるのが世の実相であるからだ。したがって、相を出ることができれば、こころが乱れることなどそもそも無くなるのである。外に対してあらゆる相を離れている状態がすなわち禅であり、内に心の乱れぬ状態がすなわち定である。{覚りの境地においては}外は禅、内は定であるから、これを禅定と名づけるのである。{その境地について}維摩経は言っている。「{覚れる人はそのとき}即時にカラリと本来のこころに立ち戻ったのだ」と。また、菩薩戒経(梵網経)に言っている。「もともと本性清浄でなくてはならぬ」と。

 善知識よ、{覚りの境地を目指す人は}自らの本性それ自体が清浄であることを見るべきである。自ら修め、自ら完成するのが、本性たる法身そのものであることに気づくべきである。自ら行ずるのが仏行であり、自ら成り切って、自ら完成するのが仏道に他ならないのである。

*** 引用おわり

 注記) { }内は、当サイトの起草者が付与。


[補足説明]
 維摩経-仏国土品の一節を引用。

○ ── 法王の法力は群生を超えています。常に法の財を一切のものに施し、能く諸法の相を分別し、第一義に立って動じない。すでに諸法について自在を得ておられる。──


[補足説明(2)]
 維摩経-弟子品の一節を引用。

○ ── 一切衆生の心の本性が無垢であることは、このとおりである。妄想はすなわち垢である。妄想のないことはすなわち浄である。顛倒した見解はすなわち垢である。顛倒せる見解がないということはすなわち浄である。我が有ると考えるのは垢である。我に執著しないのは浄である。一切のことがらは消滅して住まらないこと、幻のごとく電光のごとくである。もろもろのことがらは相互に依存しているのではないし、乃至一刹那といえども住まらない。もろもろのことがらは皆妄見である。夢のごとく、蜃気楼のごとく、水中の月のごとく、鏡の中の像のごとくであり、妄想によって生ずるのである。このことわりを知るであろうものは、戒律を奉じているものと名づけ、また<善く理解しているもの>と名づける。──