【争闘】

スッタニパータ(中村元 訳)から引用: ただし、文章の一部はSRKWブッダが補記・改訂。


<争闘>

争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口とは、どこから現われ出たのですか? これらはどこから起こったのですか? どうか、それを教えてください。」

「争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起こる。 争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起こる。」

「世間において、愛し好むものは何にもとづいて起こるのですか。 また世間にはびこる貪りは何にもとづいて起こるのですか? また人が来世に関していだく希望とその成就とは、何にもとづいて起こるのですか?」

「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起こる。 また人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起こる。」

「さて世の中で欲望は何にもとづいて起こるのですか? また(形而上学的な)断定は何から起こるのですか? 怒りと虚言と疑惑と及び<道の人>(沙門)の説いた諸々のことがらは、何から起こるのですか?」

「世の中で<快><不快>と称するものに依って、欲望が起こる。 諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。

怒りと虚言と疑惑、──これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現れる。 疑惑ある人は知識の道(真理をさとろうとする道の意)に学べ。 <道の人>は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

「快と不快とは何にもとづいて起こるのですか? また何がないときにこれらのものが現れないのですか? また生起と消滅ということの意義と、それの起こるもととなっているものを、われに語ってください。」

「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起こる。 感官の接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。 生起と消滅ということの真相と、それの起こるもととなっているもの(感官による接触のありさま)を、われは今汝に告げた。」

「世の中で感官による接触は何にもとづいて起こるのですか? また所有欲は何から起こるのですか? 何ものが存在しないときに、<わがもの>という我執が存在しないのですか?

名称と形態とに依って感官による接触が起こる。 諸々の所有欲は欲求を縁として起こる。 欲求がないときには、<わがもの>という我執も存在しない。 形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」

「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか? 楽と苦とはいかにして消滅するのですか? どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。 わたくしはそれが知りたいのです。──わたくしはそれを知りたいという想いに心をとらえられているのです。」

「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。──このように理解した者の形態は消滅する。 けだしひろがりの意識は想いにもとづいて起こるからである。」

「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。 われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。 どうか、それを説いてください。──この世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。 しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしようか?」

「世間において或る識者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。 さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。

(しかしながら、真実を知る)かの聖者は、『これらの偏見にはこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。 思慮ある賢者(明知の人)は、それゆえに(汚れなく、濁りなく、)種々なる変化的生存を受けることがない(という果報を得る)のである。」