【二種の観察】

スッタニパータ(中村元 訳)から引用:


<二種の観察>

わたしが聞いたところによると、──或るとき尊師はサーヴァッティーの[郊外にある]東園にあるミガーラ(長者)の母の宮殿のうちにとどまっておられた。 そのとき尊師(ブッダ)はその定期的集会(布薩)の日、十五日、満月の夜に、修行僧(比丘)の仲間に囲まれて屋外に住しておられた。 さて尊師は仲間が沈黙しているのを見まわして、かれらに告げていわれた、──

修行僧たちよ。 善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。 そなたたちが、『善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、何故であるか』と、もしもだれかに問われたならば、かれに対しては次のように答えねばならぬ。──『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。 しからば、そなたたちのいう二種とは何であるか、というならば、

『これは苦しみである。 これは苦しみの原因である』というのが、一つの観察[法]である。 『これは苦しみの消滅に至る道である』というのが、第二の観察[法]である。

修行僧たちよ。 このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。 ──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。──

尊師はこのように告げられた。 そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。

苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、── かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。 かれらは(輪廻を)終滅させることができない。 かれらは実に生と老いとを受ける。 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、── かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。 かれらは生と老いとを受けることがない。


「修行僧たちよ。 『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。 どうしてであるか?

『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。 『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。

このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。 ── すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

師(ブッダ)はこのように告げられた。 そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。

世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。 実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。 それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。


{以下同様の記述が続くことから、上記文章と違う部分のみピックアップします}

『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。 『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。

『およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。 『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。

『およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。 『しかしながら識別作用が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。

『およそ苦しみが生ずるのは、すべて接触に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。 『しかしながら接触が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。

『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起るものである』というのが、一つの観察[法]である。 『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。

『およそ苦しみが生ずるのは、妄執(愛執)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。 『しかしながら妄執が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。

『およそ苦しみが生ずるのは、すべて執著に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。 『しかしながら諸々の執著が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。

『およそ苦しみが生ずるのは、すべて起動に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。 『しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。

『およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。 『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。

『およそ苦しみが生ずるのは、すべて動揺に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。

従属するものは、たじろぐ。』というのが、一つの観察[法]である。 『従属しない者は、たじろかない』というのが第二の観察[法]である

『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』というのが、一つの観察[法]である。 『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』というのが第二の観察[法]である。

『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは真理である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。 『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは虚妄である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは真理である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。

『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは安楽である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは苦しみである>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。 『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは苦しみである>と考えたものを、諸々の聖者は<これは安楽である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。

師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、── それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。 また、それらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。 (正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。 他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。 解し難き真理を見よ。 無知なる人々はここに迷っている。 覆われた人々には闇がある。 (正しく)見ない人々には暗黒がある。 善良な人々には開顕される。 あたかも見る人々に光明のあるようなものである。 理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。 生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。 この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。

師(ブッダ)はこのように説かれた。 修行僧たちは悦んで師の諸説を歓喜して迎えた。実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって、心が汚れから解脱した。