解脱知見の確定

何かを身につけようとして努力している人が、それを完全にマスターしたと判じるのは容易ではない。実際、完全に身につけたようでいてもつまらぬミスを犯すことも出てくるからである。そのような場合、もちろんマスターしたとは言えないことになる。

その一方で、解脱知見は絶対である。なぜならば、解脱知見とは「苦悩をもたらす要因たる余計なものが完全に無くなったという確信を伴った知見」だからであ る。もちろん、もしその後その余計なものが出現したならば、それは解脱では無かったことになるが、実際にはそのようなことはまず生じ得ない。

解脱知見の確かさとは、たとえばすでに赤色を認知している人が、自分が赤色を認知していることについての確かであると分かっているのと同じくらいハッキリしていることである。

ところで、修行者が解脱したであろうと自ら思ったならば、次の観察を行ってその知見を確定することが勧められる。これは、釈尊の原始仏典では二種の観察法(二種ずつの観察法)として知られているものであり、いわゆる四聖諦(苦・集・滅・道)のことである。

すなわち 1:苦の本質を覚知したか? 2:苦の本当の原因を覚知したか? 3:苦が完全に滅したことを覚知したか? 4:苦の滅に至った経緯・因縁を覚知したか? である。これらが修行者自身明確であれば、その解脱知見はまず間違いない。

ここで、逆に言えば衆生とは、 1:苦の本質を知らず 2:苦の本当の原因が分からず 3:苦の滅を実感せず 4:苦が滅する因縁を生じていない 存在であると言うことになる。