定慧と仏道修行者

真実を知ろうとするならば、どうしても定を完成しなければならない。何となれば、定においてのみ自分自身の本当のところが明らかとなり、また相手の本当のところも明らめることが出来得るからである。そこにおいて智慧を生じたならば、解脱が起こると説かれる。

見せかけの静けさは定では無い。見せかけの静けさによって解脱は生じない。したがって、たとえば瞑想(メディテーション)によって達するそれぞれの空住 は、定の完成には役立たない。それぞれの空住は、それぞれの空住という境地を得るに過ぎないからである。その一方で、正しい定は、その定のもといとなった 事象についてのそれぞれの智慧と一対になっているものである。

ところで、定を完成させるための固定的な方法は存在しない。観(=止観)は、その一つの知られた方法であるが、これによって必ず定が完成すると言えるものでは無い。ただ、ある人は、観(=止観)を縁として定を完成させるということである。

一般に、修行者にとって大事なことは定の本質に迫ることである。それで、静けさを目指して邁進する人が、次第次第に功徳を積んだとき、ついに解脱すると説かれる。このとき、定の完成が同時に為し遂げられているのである。

修行者がいきなり智慧を理解することは極めて難しい。その一方で、定を理解し、完成を目指して邁進することは比較的容易である。実際、定が本体であり、智 慧は作用であると説かれる。たとえば、素養の無い人が数学の高度な公式を聞き知ったとしても理解出来ないであろう。その一方で、数学的な素養がある人に とってはそれぞれの公式は便利なものである。定慧も同様である。

また、この構図は、如来と善知識(化身)においても成り立っている。修行者にとって如来の本質を理解することは極めて難しい。目の当たりに生き身 の如来を見ても、如来だと認知することさえ難しいほどである。その一方で、善知識を縁として発心し、善知識(化身)が発する法の句を縁として解脱を生じる ことは誰にとっても充分に為し得る筈のことがらである。

そして、この意味において、覚りと如来とは無関係であると言えよう。何となれば、如来が善知識(化身)の役割を果たすことはまずあり得ないからである。

善知識(化身)との邂逅を意味あるものにするためには、修行者は気をつけていなければならない。そこで、「気をつけていよ」と説かれる。このように気をつけている人を、仏道修行者と呼ぶ。