修行者の楽しみと栄え

修行していなくて、楽しみが多いのは危険である。その楽しみには耽溺しやすく、実際に耽溺するならば道を踏み外してしまうだろう。 その一方で、修行していて楽しみが多いことは、この場合には修行が進んでいる一つのバロメーターともなる。立派な修行者は、その楽しみに耽溺することは決 して無いからである。そこにおいて栄えを生じ、修行者はさらにニルヴァーナへと近づくことになる。

ところで、覚りの道の途中には果報と言うべきいかなる実りも存在していない。したがって、修行者が修行中に感じる楽しみはこれとは関係のない通常の、世間 的なことがらについての楽しみである。ところが、一見して覚りの道とは無関係のその世間的なことがらがについて楽しいことが、意外にも修行が進んでいる証 左となるのである。なお、この機微については、預流に達した人──具体的には「苦い薬の(準)公案」を通過した人──は理解しているであろう。この機微を 把捉し、体得しているならば、楽しみが多いことは何の問題もないどころかむしろそうであるべきことになる。この意味において、立派な修行者は大いに楽し み、さらに栄えを生じよ。

ここで、この栄えとは、万民が認めるところの、全人類がそこに達するであろうと考え得るあり得べき「それ」の行使の帰趨であり、それによって人々が楽し み、苦しむことがなく、誰も悲しませず、それを為すことについて誰一人異議を唱える恐れが無く、それを為したことによって不吉なことを生じず、本来は当た り前のようにあるべきものであり、しかしながら得難いものを指す。したがって、徒党を組んでいても敵があるならば栄えているとは言わない。全人類がそれを 享受して楽しんでいても、そのそれによって不吉なことを生じるならばそれは栄えとは言わない。未熟な者はこの真の栄えの実在を訝しがるかも知れないが、そ のような者でも自らの成長とともにこの栄えの意味と実在とを理解するであろう。心が邪な者でもこの栄えを損じることはできず、悪人でさえこの栄えを栄えて いると認めるのである。また、神々はこの栄えを大いに羨む。