覚りは一瞬に起こる

ものごとは、それがつねに出来てこそ、出来ていると言われる。出来るときと、出来ないときがあるのでは、実は出来ていないのであ る。ところで、この情欲を超えて「その表象」を生じたとき、それ以後はつねにそれが出来るようになる。それで一定の境涯に達したと認められるのである。

修行者が、数日を振り返り、数ヶ月を振り返り、さらに数年間を振り返って、心に憂いなく、煩いがなかったと実感されるのであるならば、彼の修行は半ばどころではなくもう殆ど完成している。覚りの機縁を生じたならば、ただちに解脱が起こるであろう。

たった一日間を振り返っても、心に憂いなく、煩いがなかったと真に実感されるのであるならば、彼の修行は半ばどころではなくもう殆ど完成している。覚りの機縁を生じたならば、解脱が起こるであろう。この意味において、修行期間の長短は覚りとは関係がない。

この一日間を振り返っても、心に憂いなく、煩いがなかったと真に実感され、確信されるのであるならば、明日も終日、心に憂いなく、煩いは無いであろう。明後日、その先も同様であろう。そのような人の修行はすでに完成している。

たった今の数分間を振り返ったとき、心に憂いなく、煩いがなかったと真に実感されるのであるならば、これ以降、生涯、心に憂いなく、煩いは無いであろう。実は、これが覚りの瞬間に他ならない。この意味において、覚り(=解脱)は一瞬である。