自分に甘い修行者

 自分に甘い修行者とは、一言で言えば「分かった気になる修行者」である。しかしながら、それでは覚りは遠いこととなるだろう。その一方で、立派な修行者は「分かる気になって」修行に勤しむ。そうして、(因縁によって覚り)ついにすべてを理解する。

 ところで、甘いとか甘くないとかの本質は、慢心に陥るとか卑下することとは別のところにある。実際、修行者は多少慢心があるくらいで丁度良い。そ うであればこそ、「分かる気になって」修行に勤しみ得るからである。また、修行者があまりにも長く修行しても成果が得られないと──その実感が無いと ──自分自身を卑下してしまうことがあるかも知れない。しかしながら、そのような場合でも、自分自身を捨て去ることがなければ問題とはならない。修行の途 中に劣等意識を生じることがあっても、意気消沈せず、修行を続けるならばきっと覚ることができるであろう。そうして、覚ったならばすべては過去のこととな る。

 たとえば、学生は成績優秀であるに越したことはない。しかしながら、それよりも大事なことは最終的に立派な大人になることである。学生としては優秀で あっても、長じて大人になったとき、子供じみた一面を多く残しているようでは、とても立派な大人(おとな)とは言えないであろう。その一方で、たとえ肉体 労働に勤しんでいても、凛として人生を送れば立派な大人であると言えよう。学生が優秀とは言え、それは既知の学問が分かっただけのことである。社会に出れ ばそれはほとんど役には立たない。その程度のことで自分が何か偉くなったように思うならば、それは始末に悪いこととなるだろう。
 
 修行者は、立派な仏になることを考えるべきである。「分かる気になって」修行に勤しめ。そうして、立派な仏となるべきである。実際、それは不可能なことではない。