僧伽(サンガ)は主催できない

言葉は絶対のものではない。修行者が言葉に翻弄されるならば、それでは本末転倒である。しかしながら、覚りは言葉を縁として起こる。したがって、言葉を軽んじてはならない。

ところで、陀羅尼(ダーラニー:総持)のように一種絶対性を持った言葉もある。智慧もまた特別な絶対性を持っている。すなわち、通常智慧が平易な言葉で発 せられるので世人には分かり難いが、その出現した一大事における絶対の言葉であるのは本当のことだからである。ただし、一大事は世の一般的な局面ではない という意味で、智慧を衆生に向けて絶対性を持ったものだと説明することはできない。

世に一大事が出現することは稀である。ところが、修行者それぞれは一生の間に少なくとも2〜3回は遭遇すると期待され得る。もしこれが人口×3回の頻度な らば世には一大事が溢れている計算になる。しかしながら、善知識(化身)の実際の出現は稀有である。これは、真の修行者そのものが極めて少ないことを示唆 しているのだろう。つまり、善知識の頻度=真の修行者×3回程度(:数十年間において)という計算。具体的には、例えば現在20人の真の修行者が存在する と仮定したとき、善知識の頻度は、20人×3回÷50年間=年間1回程度の頻度と計算される。なるほど、私(=SRKWブッダ)が善知識に遭遇することが 極少ない事実に納得が行く。──ただし、それぞれの修行者には一生で2〜3回の遭遇が見込まれることには変わりないので心配無く。

さて、そこで善知識(化身)出現の頻度(=修行それぞれの遭遇率)向上の場としての僧伽(サンガ)が論議されることになるのであるが、法(ダルマ)の性質 上、僧伽を意図して創設することは出来ない。何となれば、僧伽も因縁によって形成されるものだと考えて大過ないからである。つまり、僧伽は主催できないと いうことである。

このため、如来も敢えて僧伽を主催しない。そんなことは元々出来はしないと知っているからである。しかしながら、僧伽が世にまったく形成出来ないということではない。仏縁ある人々が因縁に応じて集えば、それが僧伽として機能することはあり得る。