善知識(化身)を認知するには

世に出現した善知識(化身)を、善知識だと見分け認知するコツなど存在しない。ただ、功徳を積んでいるならば、まるで呼応するように善知識(化身)が出現し、その出現の真意と真実の真相を理解することが出来るであろう。そこにおいて確かに解脱が起こると説かれる

究極の問いがあればこそ、善知識(化身)は世に出現し、その意義が整う。修行者が自ら精進して到達・発見したところの、あり得べきこの究極の問いについて 考究し、その暫定の答えを得ていて、それなりに立派な答えだと自負しているときに、その勘違いを正すかのように善知識(化身)が本当の答えを示してくれ る。そこにおいて、真の答えを真に理解することを得て、解脱が起こることになる。

この究極の問いは、功徳を積んだ人だけに為し得るものである。この問いを為すことそれ自体が、功徳の賜である。ここで、観(=止観)において外的に問うな らば慧解脱が起こる。また、内的に問うて世を厭う気持ちが定まるならば身解脱(形態(rupa)の解脱)を生じるだろう。

ところで、この問いはもちろん言語表現された形をとる。しかしながら、言葉に囚われてしまうと間違ってしまう。愚者はそうして得た突き詰めた答えを覚りだ と見なし、修行の成果を誇り、吹聴するが、行き先は(地獄などの)悪処となる。その一方で、立派な修行者は言葉そのものには囚われず言葉を機縁としてニル ヴァーナに近づく。彼はよく気をつけていて、世に稀有なる法の句(善知識)を聞き及ぶことになるからである。

愚者は、智慧ならざるものを智慧だと思いなし、自ら得たと認め、歡喜・鼓舞し、その経緯と知見と輝かしい未来を世間に吹聴する。その一方で、立派な修行者 は智慧を確かに智慧だと知り極め、体得し、〈特殊な感動〉を生じて解脱し、同時に世間を離れ、まったき静けさの境地に到達して住する。

愚者は、(自分が)素晴らしいことを成し遂げたと声高らかに吹聴する。そして、『我がその方法を教えよう』と言う。その一方で、解脱した人は、(尋ねられ たならば)「ブッダの言葉は為し遂げられた」と顧述する。そして、『教えを聞こうと熱望する人が覚るであろう』と真理を語る。それぞれの態度はそれぞれで あり、それぞれの行き先も正反対となる。