予定調和と大団円

覚りは予定調和ではない。大団円である。それぞれの違いは決定的に大きい。公案に取り組む場合にも、修行者はそれぞれの違いを理解していなくてはならない。そうでなければ、仏智ではなく間違って人智に辿り着いてしまうだろう。それでは、覚ることは難しい。

公案に取り組む人は、最初は字面に翻弄されてトンチンカンな回答を寄せる。これを抜けだすと、今度は予定調和を目指すようになる。しかし、それではこの情 欲を超えることはできない。この情欲を超えなければ、心の解脱は生じない。そこで、大団円の境地についての理解が求められる。修行者が、『どうしてもいけ なければどうするか』の局面において誰も悲しませない答えを想出したとき、公案の通過を見る。因縁があれば心の解脱が起こる。これは、あり得べき観(=止 観)の完成である。

『どうしてもいけなければどうするか』の文言は字面以前であり、予定調和を演出するものともならない。つまり、この公案は究極のその答えを直に求めていることになる。すでに達している人は、一瞬に正答する。そうでなければ、心解脱はまだ先のことである。