地獄に堕ちる悪行

愚者は余計なことをして、その余計なことが余計な分だけだと考える。しかしながら、実際には、その余計なことは千万億倍にも膨らん で大きな悪業となる。たとえば、僅かなバイキンが手がつけられないほど増殖するようなものである。この恐ろしさに注視して、修行者はつつしんで行為を為す べきである。

釈尊時代には、コーカーリヤが僅かなことを発端にして地獄に堕ちた。現代でも、それと変わらぬ愚者を見ることがある。しかしながら、それは彼自身がしたことである。ニルヴァーナに至るのも、地獄に堕ちるのも、各自のことがらなのである。

ところで、釈尊も、コーカーリヤが地獄に堕ちるのを救わなかった。実際、救うことはできないのである。この世のことがらは、すべて自分が為したことで決まる。仏といえども、他の人が介入することはできないからである。

正しい道も、心構えが正しい人が歩むゆえにニルヴァーナに至る道となる。心が邪であれば、正しい修行もその者を地獄へと引きずり下ろす。すべては、本人の問題である。ゆえに、先ず心を矯めよと説かれる。