どれが本体

たとえば、98に2を加えて100とする。このとき、2を加えたのだと考えるのが通常である。しかしながら、見方を変えれば、2をしっかりとした ものにするために、事前に98の器(乗り物)を用意したのだとも言えよう。小さいからと言って侮ってはならない。ことの本質を見極めよ。

聡明な人は、固定的な状況判断に流されず、ことの本質を観る。小さいとか、少ないとか、あとで付け加えたのだとか、こちらが本体でこれは付属品に過ぎないとかの状況にこだわらず、それぞれが何であるかをしっかりと観るのである。

修行者は、自分以外の人を軽んじてはならない。その人が身近な人であって、特定の関係性が樹立されていると思っても決して不当に見くびってはならない。自 分より弱い立場の人を恕(じょ)して、真理を知ろうと奮励せよ。よく気をつけていよ。見かけのことではなく、4つの徳目(=「誠実」「堪え忍び」「施与」 「自制」)が功徳の真のよすがなのである。

しっかりと考えたことが本体であるのか、あるいはふと思いついたことが本体であるのか、予め知ることは誰にもできない。覚りは頓悟であって、漸悟ではない からである。もちろん、しっかりと考えたことが理法と軌を一にするならば、それがもっとも理にかなったこととは言えよう。しかしながら、そうではない場合 もある。

世に稀有なる善知識(化身)は、まるで意外なところに出現する。真実を知ろうと熱望する人が、そのすがたを見て、さとり、さとり終わって、ついに解脱するのである。