愚者と賢者

覚りの道は、微妙である。立派な修行者が、その機微を知る。愚者が覚ることはない。覚りの道は、(確かに)賢者の道なのである。

さて、ある人が、まるで愚者が書いたような文章を書いたからと言って、かれが愚者であるとは限らない。わざとそうしているのかも知れないからである。その 一方で、ある人が賢者にふさわしい文章を書いたならば、かれは間違いなく賢者である。愚者が、賢者の文章を書くことは決してできないからである。

もし愚者が、賢者の文章を的確に引用すれば、かれが愚者なのか賢者なのかはわからなくなる。そこで、たとえば公案を立てるのである。公案を通過した人は、 間違いなく一定の階梯に達している賢者だと認められるからである。もちろん、公案を通過できない人がそれだけで愚者だと断じられるのではない。公案に取り 組むことについては、修行者の向き不向きが存在している。

ところで、愚かな者は、自分で自分自身を欺き偽る。彼はそれによって地獄に堕ちることになる。いわゆる世間的な悪いことをしたから地獄に堕ちるのではない。自分を欺き偽るゆえに、自ら地獄に堕ちていくのである。愚者が笑いながら地獄に堕ちる所以である。

表立ったことを何もしなければ、愚者も、愚者だと知られることがないであろう。しかしながら、何もしないのであるならば、愚者が賢者になることもない。た とえ今は愚者であっても、正しい信仰を起こしたならば賢者ともなる。そして、その先に確かにニルヴァーナが存在しているのである。ただ、世間においてこの 一なる道を歩む者は少ない。

「こんないいことを聞いた」「こんないいものを見た」「こんないいことがあった」...それらのことを百千万億得て、並べて、それを3倍にして、さらに2 倍しても、それらによって覚ることはない。覚りの道は、それらとは違うところにあるからである。聡明な人は、自らの明知によって覚りの道を見い出す。あと は、まっすぐに歩めばこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に到達するであろう。なんとなれば、それが法(ダルマ)だからである。