【一つの言葉とそれぞれの理解】

経典の文章は、それぞれが一つのことを言っている。そしてもちろん、もろもろの如来が語るそれぞれの言葉も、それぞれが一つのことを言っているのである。

しかしながら、未だ覚っていない人々にとっては、それぞれの言葉は一つのこととは理解され得ず、見聞きした人それぞれの受け止め方の違いによって、それぞれの理解を生じることになる。

それでも、修行者はそのことを気にする必要はない。それぞれの理解を生じても、それで構わないのである。と言うのは、それぞれの理解という一種の勘違いによっても、解脱を生じるからである。そして、解脱した後で、それぞれの文章や言葉が一つのことを言っていることを正しく理解するようになる。

もちろん、経典の文章や如来の言葉を曲解するようでは覚りの道は拙く危うい。こころある人は、当たらずとも遠からずの一定の理解を生じ、それによって機縁を生じ、ついに因縁を得て覚るのである。

大事なことは、経典に転じられたり、如来の言葉に一喜一憂しないことである。静けさをめざして進む修行者が、ついに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達するのであるからである。