【世界のどこにいようとも】

世界のどこにいようとも、SRKWブッダの理法を読んで真理を追究する人は間違いなく我が縁者である。 その中には、弟子と認める人もある。 ただし、細君は私の弟子ではなかったように、如来の弟子だから覚りに近づき易いということはなく、別に如来の弟子でなくても充分に解脱は起こる。 如来のことは脇に置いて、自分はどのようになりたいのかを追求することが立派な一つの修行となり得るからである。

覚るのに環境は関係がない。 もちろん、静かであるに越したことはないが、種々さまざまな固有の人間関係が覚りの修行の障害となることはない。 むしろ、その人間関係を正常ならしめることを考究し、念じよ。 それによって思い当たり、智慧を見たとき、解脱は起こるであろう。

覚るのに言語は関係がない。 もちろん母国語が分かりやすいが、種々の言語を知っていることはむしろ覚りのアドバンテージとなり得るだろう。 表現上、「善知識を聞いて覚る」と言うが、実際には善知識をどのように聞いたかが重要なのである。 すなわち、聞き及んだ「その言葉」の真意を法(ダルマ)であると見たとき解脱が起こる。

修行者は、世界のどこにいようとも悲観するにはあたらない。