【善知識出現の契機】

真実を知ろうと熱望する人があって、功徳を積んで、その人がまさに疑惑を去りつつあるとき、善知識はそれにまるで呼応するかのように世に出現する。 そうして、彼は善知識の真実を知って解脱することになる。 これが覚りの瞬間に起こることの全貌である。

ただし、善知識はその出現を望む人があるゆえに世に出現するのではない。 おそらく、それとは無関係に世に大事があればそこに出現するのである。 たとえば日食や月食が、人間を喜ばせたり驚かせたり不思議がらせるために出現するのではなく、一定の天体条件が整えば対応する地球上の場所で現象が観測されるようなものである。 それを見て喜んだり驚いたり不思議がったりするのは、人間側の主観的な都合に過ぎない。

善知識出現の契機もそのようである。 諸仏は世に善知識を出現させるが、それは特定の人間を仏にしようとして出現させるのではない。 ただ、善知識出現をありさまを眼のあたりに見て、それがまさしく正法の云う通りのことだと知る人が解脱するということである。

ところで、皆既日食を見ようと思っても、自分が住んでいる場所に起こるのは稀である。 一生の間に一度もチャンスは訪れないかも知れない。 現代においては日食や月食のメカニズムが解明されているので、それが起こる日時や場所が予測できるが、それが出来なかった時代に皆既日食を見ようとして見ることはほとんど不可能だったであろう。 善知識出現を眼のあたりに見ることもそれと同じように難しい。 自分が住んでいる場所に善知識が出現する保証は無いし、かと言って善知識を求めて闇雲に世界をうろついてもそれによって善知識に遭遇する可能性が高まるわけではない。 ただ、真実を知ろうと熱望し、功徳を積む人の前には善知識が必ずや出現すると期待され得る。 日食のメカニズムを知っている人が日時と場所とをうまく選ぶことができるように、功徳を積んだ人の前には善知識が向こうからやって来るのである。