【地獄に落ちることはおそろしい】

善いことを百しても、たった一つの悪を働くならば、その者は悪人である。 一皿の美味しく作った料理に、一滴の毒を垂らしたようなものである。

たとえ百の功徳を積んでも、たった一つの(決定的な)悪を働くならば、功徳は消え悪業だけが残る。

輪廻する主体は、業異熟である。 人々は自分が為したことによってそれぞれに相応しい輪廻の因を作ってしまう。 ある人は天界に向かい、ある者は苦界に生まれ、悪人は地獄に落ちる。 それは本人の意識(自覚)とは無関係に起こることであり、何を為したかによって決まってしまう。 知らない、知らなかったでは済まされないことである。

地獄には光がない。 それゆえに希望がない。 地獄には道がない。 それゆえに安らぎに向かう手段がない。 地獄には鬼はいても諸天も諸神も菩薩も如来もいない。 それゆえに悔い改めるよすががない。

小さな火傷の痛みを知って、それによって大火傷の苦しみを推し量ることが出来ない者は触れてはいけないものに触れて大火傷を負う。 実にこの世には目に見えない恐ろしい火もある。 それらに触れて大火傷を負ってから泣き叫んでもどうすることもできない。 現世の苦悩を知って、地獄の苦しみを推し量ることが出来ない者は犯してはならない悪を働いて、地獄に落ちて悔やむ。 しかし、そうなってから悔やんでもどうすることもできない。

もろもろの如来は、地獄の恐ろしさを説くのではなく地獄に落ちることの恐ろしさを説く。 また、地獄に落ちる者の因を説く。 人々を享楽に導いた者の行く末は地獄であると知って、それをそのままに説く。 けだし、感覚的感受を喜ぶ者はついに覚ることがないからである。 一人の覚りを妨害すれば一人分の悪業を背負う。 百人の覚りを妨害すれば百人分の悪業を背負う。 無数の人々の覚りをたとえ間接的にでも妨害すれば行き先は地獄と決まっている。

こころある人は、そのおそろしさに注視して享楽に馴染んではならない。 他の人々を享楽に導いてはならない。 本当におそろしい毒は甘いので、容易には吐き出すことが出来ないからである。