【真実が開顕されるとき】

真実は、まるで突然に明らかとなる。 それ以前においては、いかなる予兆も存在しない。 すべてが明らかになった後で、後づけでその全貌が理解されるのである。

真実は、満を持して明らかになるのではない。 「その時が来たときに真実は因縁によって明らかになる」と仏たちが言うのは、あくまでも言語表現上の言い方である。

真実は、厳然としてそこにあるのではない。 「真実は最初からそこにあるのだが、衆生は眼が開けていないので見えずにいる。 眼を開いたならば真実は直ちに明らかとなる。」 このような言い方を仏たちがするのも、あくまでも言語表現上のことである。

「無明ゆえに衆生は真実を知らずにいる。 無明が裂け落ちたとき、真実が明らかとなる。」 このような言い方を仏たちがするのは、解脱の瞬間にすべて重荷を降ろした感覚を生じ、何か心の中にあった余計なものが裂け落ちたと思うのでそれを言語表現したに過ぎない。

「真実は、極限のいざというときに明らかとなる。 これを一大事と呼ぶ。 しかし、一大事を演出することはできない。 それが起こることそれ自体が因縁によるものだからである。」 世俗のことでも、いざというときに本当のことが明らかとなる。 普段親しくしていても、いざというときに助けてくれず、それどころか冷たくあしらう者は友ではなく敵なのである。 その反対に、普段は喧嘩していても、いざというときに我が身をかえりみず助けてくれ、さらに恩着せがましいことを言わない人は敵どころか一生の友である。 仏たちは、智慧が極限のいざというとき(一大事)に出現することを知るゆえに、それを知るままに説く。

真実も解脱も覚りも智慧も、仏たちが衆生に説明するために言語表現したものである。 真実も解脱も覚りも智慧も確かに存在する虚妄ならざるものであるが、言語表現されたことには言語表現上の限界を生じる。 たとえば赤色を直接色で示さずに言葉だけで説明しようしても、説明しきれないようなものである。 たとえ地球の表面を説明の文字で埋め尽くしても説明できないであろう。 それゆえに、修行者は言語表現された言葉そのものにこだわってはならない。 言語表現された言葉の真意を知ろうとせよ。

仏たちは、「真実を知った人は覚っている」と説く。 それゆえに修行者が真実を知ろうとするのは当然のなりゆきである。 しかしながら、真実は知ろうとして知ることができるものではない。 しかし、知ろうとしなければ知ることはできないものである。 ただ、真実を知ったかどうかは自分で判断できるものである。 というのは、釈尊が言うように『真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。』──からである。 すなわち、一切の争いを超えた人は真実を知った仏なのである。

いざというときに心から助けの手を差し伸べてくれる人がある人は、すでにニルヴァーナの近くにある。 いざというときに、自分が誰かを助けようとするならば、その人は必ずや仏になるであろう。 真実は、そのときにこそ開顕されるだろう。

この世にどんな美麗なものがあろうとも、真実の美しさには遠く及ばない。 この世にどんなに美味しい飲料があろうとも、真実の味わいには遥かに及ばない。 この世にどんな宝があろうとも、それらを全部集めて、さらに3倍にしても、真実という宝の足元にも及ばない。 人は、真実によってのみ解脱して、一切の苦悩を終滅せしめることができるのだからである。

こころある人の前にこそ真実は開顕される。 真実を真実のままに見たならば、仏となるのである。