【自分を真に正しく知る問い】

 「私は誰か?」

この問いを究極まで突き詰めても、解脱を生じることはあり得ない。 人は、この問いによって覚ることは無いからである。

正しい問いに辿り着いたとき、人は解脱の機縁を生じる。 それは本当のことなのであるが、首記の問いはそれにはあたらないものである。 いくら突き詰めたところで汚れが消え失せることのない不毛の問いに、修行者は心を奪われてはならない。

首記の問いは、自己をより正しく知る一つの手段にはならない。 もしも、そうだと思う者があるならば、その者はそうだと見なし断じたに過ぎない。 この世には、まことしやかに語られて、また表現されて、しかし真実の教えではないものが現れることがある。 そのような正しからざる教えを信奉するならば、人は結局は地獄へと赴くことになる。 盲が盲に手を引かれて行くようなものである。 聡明な人は、眼ある人の教えを信じてゆっくりと邁進せよ。

ところで、自分を真に正しく知る問いとは次の問いである。

 「そのとき、自分は何者であったか?」