【覚りに向けた努力】

覚りは、努力の結果としてもたらされるものではない。 しかし、覚りは何の努力も無しにもたらされることもない。 覚りは、明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついてついに解脱が起こるというものだからである。

正しい学びの心を持つ人は、目的に向けて行った種々さまざまな努力が時々に応じて無駄なく望みを達成する力(その正しい流れの源動力)として働くことを知る。 そして、一見して目的とは無関係に思える努力さえもがかれの望みを達成する糧となるのである。 かれは、いかなる犠牲も払うことがなく、損なわれるものも失われるものもない。 かれは、そのようにしてついに望みを超えた究極の望みを達成することになる。

覚りに向けた努力とは、端的に表せば次のことを言う。

 「これは覚りの道とは関係ないかも知れないが、これは無駄かも知れないが、他に思いつかないからと言うわけではなく、しかし敢えて真摯に考究しようと思ったそのことがらについてその究極の相を見ようと思い、そのための考えられるあらゆることに挑戦し、その顛末と帰趨とを見極め、静けさを目指して遍歴し、安らぎの真実を見ようとすること。」

ただし、覚りに向けた努力とは、

 何かを覚えることではない
 何かを習うことではない
 何かを真似ることではない
 何かを思考(演繹・帰納...)することではない
 何かを実践することではない
 何かを願うことではない
 何かを念じることではない
 何かを祈ることではない
 何かを断じることではない
 何かを無条件に受け入れることではない
 何かを予め排他・排斥することではない
 何かを信奉することではない
 何か儀式を執り行うことではない
 何かの衣装を纏うことではない
 何かの義務にとらわれることではない
 何かの役割を果たすことではない
 何かに従属してはならない
 誰かを従属せしめてはならない
 
のであるという点に留意しなければならない。