【遍歴の実際】

修行しても修行が進んだという実感が持てず、余りにも覚りが遠いと、何をどうしてよいか分からなくなる人があるだろう。 そのようなときには、次のようにするとよい。 それは、真実を知ろうと熱望することである。

ある人は、何をどうしてよいか分からなくなった時には原点に立ち返るとよいと言うかも知れない。 しかしながら、覚りに向かうこの一なる道には、立ち返るべき原点など別に存在していない。 折々に立ち止まったその地点から再出発すればよいのである。 これを遍歴と呼ぶ。

また、ある人は何をどうしてよいか分からなくなった時には行き着くべき目的地を見据えればよいと言うかもしれない。 しかしながら、覚りの目的地とはずばり「覚ること」であり、取り立てて目的地などと呼んで見据える必要もない。 もしも何かを目的地と見なすならば、現在の地点から余りにも離れていると感じて意気消沈してしまうだろう。 それでは目的地を見据えようとしたことそれ自体がやぶ蛇となる。

いとも聡明な人が、真実を明らめて究極の境地たるニルヴァーナへと至る。 真実を知ろうと熱望し、実際にその真実を知ることによってそれは起こる。 これが覚りの全貌であり遍歴の実際である。

解脱は因縁によって起こることであるが、その因縁は真実を知ろうとする熱望によって喚起されると理解され得る。 もろもろの如来は、皆そのように理解しているし、理解した理法をそのままに説く。

修行者は、どんな遍歴を為しても諦めずにゆっくりと邁進せよ。 途中で立ち止まることがあっても、何ら恐れる必要はない。 道に迷ったと思っても、引き返す必要はない。 真っ直ぐに進めば、必ずこの大道に出るからである。 この遍歴は、海を渡るようなものだと言われる。 向こう岸は見えないが、正しい流れに乗って進みさえすれば必ずその岸に辿り着く。 遍歴とは精励そのものである。 こころある人は、如来の言葉を信じて為すべきことに奮励せよ。