【心の根底にあるものによって】

自覚しているかどうかはさておき、人は心の根底から求めているものに出会うことになる。 それゆえに、ある人の周りにどのような人々が集っているかによって、あるいはまたその人が何に近づき何を手に入れているかを見ることによって彼が何者であるかが分かるのである。

真理を求めていると公言し、かれ自身まさしくその通りだと思い込んでいても、もしも彼が物を欲しがるように真理を求めているならば、まるで偶然を装って、真理に見せ掛けた真理ならざるものが彼の目の前に出現するだろう。 悪しきものをわずかでも手に取ったならば道を踏み外してしまう。

その一方で、心構え正しき人が真理を熱望するならば、その願いを超えた願いを叶えようとして法(ダルマ)がかれの前に出現することになる。 かれに因縁があれば直ちに解脱が起こる。 因縁がなくても道の歩みを堅固ならしめるものとなる。 法(ダルマ)が世に出現するときはつねにそのようである。 諸仏は、こころある人(=菩薩)を覚らせようとして世に出現するからである。

愚かな者が望み、未熟な者が憧れ欲しがるようなものは、それがどんなに価値があるように見えても安らぎには役立たないものである。 その一方で、真に価値ある宝はいかなる盗賊にも奪われることがない。 それどころか、盗賊さえもがその宝を自ら携えて持ってきてくれる。 その無上の宝が、人を覚りへと導くものとなる。

仏教は、本来、右も左も分からない人にこそ示されるべきものである。 すでに道を見い出した人には道標さえいらない。 その無上の宝を髪に頂いた人は、覚りの機縁を生じ、自らの因縁によって解脱することは間違いないからである。

人々は、この人生において落ち着くべきところへとそれぞれに落ち着く。 しかしそれらは運命でも宿命でもない。 それは努力や財によってどうにかなるものでもない。 けだし、この世のことはすべて因縁によっているからである。 真実を知ろうと熱望するならば、あり得べき究極の境地(=ニルヴァーナ)に落ち着くことになるであろう。 こころある人は菩提心を起こせ。 他ならぬ自分が仏になれるのだと心から信じよ。