【しあわせを体得する人と地獄へ赴く者】
乏しき中から与える人は豊かである。 豊富に持っていても慳みする者は貧しい。
人は豊かさによって栄え、栄えの中に解脱する。 その一方で、貧しさによって賤しくなる者は解脱することなくくずおれる。
愚かな者は、悪いことを行ってもその報いの現われないあいだはそれを蜜のように思いなす。 しかしその罪の報いが現れたときには、苦悩を受ける。
知者はたった一言でしあわせを体得する。 愚者はたった一言で地獄へと赴く。
こころある人はその真実のありさまに注視して静けさを目指せ。
[補足説明]
釈尊の原始経典には、次の言葉が見られる。(引用: 中村元氏訳)
○ もし或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。 もしも或る行為を
したのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。 愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現わ
れないあいだは、それを蜜のように思いなす。 しかしその罪の報いが現れたときには、苦悩を受ける。(ダンマパダ)
○ 悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。 悪いことをすれば、後で悔いる。 単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。 為しお
わって、後で悔いがない。 辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。 瞬時も空しく過ごすな。 時を空しく
過した人々は地獄に墜ちて、苦しみ悩む。(ダンマパダ)
○ 〔傍らに立った(神の子)ナンダは尊師のもとで、次の詩をとなえた。──〕「時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。 青春の美しさは、次第に〔われら
を〕捨てて行く。 死についてのこの恐ろしさに注視して、安楽をもたらす善行をなせ」と。 〔釈尊いわく、──〕「時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。
青春の美しさは、次第に〔われらを〕捨てて行く。 死についてのこの恐ろしさに注視して、『世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ。』」(サンユッタ・ニ
カーヤ1)
○ 〔あるとき尊師は〕、サーヴァッティ市のジェータ林・〔孤独なる人々に食を給する長者〕の園に住しておられた。 そのとき多くのサトゥッラパ群神たち
は、夜が更けてから、容色うるわしく、ジェータ林を遍く照らして、尊師のもとにおもむいた。 近づいてから、尊師に挨拶して、傍らに立った。 傍らに立っ
た或る神は、尊師のもとで、ひとり喜んでこのように語った。 ──
「友よ。 〈与える〉というのは、善いことだ。 ものおしみと怠惰のゆえに、このように施与はなされない。 功徳を望んで期待し道理を識別する人によって、施与がなされるのである」と。
そこで、他の在る神は、尊師のもとで、ひとり喜んでこのように語った。 ──
「友よ。〈与える〉というのは、善いことだ。 たとい乏しき中からでも、与えるというのは、善いことだ。 或る人々は、乏しき中からわかち与え、或る人々は、豊かであっても与えようとしない。 乏しき中からわかち与えたならば、千倍にも等しいと量られる」と。
〜〜 〈中略〉 〜〜
● ── そなたらのどの詩も、すべて、順次みごとにとなえられた。 しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。 信仰をもって(与えること)が、実にいろいろ
と讃めたたえられた。 しかし、(与えること)よりも「法の句」のほうがすぐれている。 昔の善き人々、それよりも昔の善き人々も、智慧をそなえて、ニル
ヴァーナにおもむいた と。(サンユッタ・ニカーヤ1)