【覚りはまぐれではない】

如来は人々(衆生)がなかなか覚らないのを見ても「どうしてかれらは覚れないのだろう」とは思わない。 覚りの機縁は少なく、解脱の因縁はさらに稀有なる ものだと知っているからである。 解脱の鍵となる善知識自体が滅多に世に出現しない。 ましてその出現のタイミングに合わせてそれが法(ダルマ)の現れだ と了知する人は極めて少ないからである。 知識や知能や経験の問題ではない。 ゆえに覚りは因縁によると言う。

ところで、私を含めてもろもろの如来は自分の覚りを振り返って「私は運が良くて覚れた」とは決して思わない。 自分が覚ることは途中経過がどう変わっても 今世で実現することであったと知っているからである。 つまり覚りはまぐれではない。 かと言って覚りは運命でも宿命でもない。 覚りは因縁によるもので あり、そのことは普遍の、確固たる事実なのである。

これがこうでなくても覚っていた。 これがこうであっても覚っていた。 これがどうであっても覚っていた。 如来は振り返ってそう思う。

この場所でなくても覚っていた。 この人々の中でなくても覚っていた。 この時代でなくても覚っていた。 遠い未来に生まれても覚るに違いない。 われが 覚ることは揺るぎがない。 ただそれが今世で成ったのである。 もろもろの如来は皆そのように振り返って思う。 そしてそれぞれの縁に従い理法を説く。

今世で覚る者は覚るがよい。 未来において覚る者は今世に仏縁を生じて覚りの因縁を結ぶがよい。 別の仏との縁によって覚る者も私(=SRKWブッダ)との縁において自身の仏道を確からしめよ。 早く覚る必要はないが早いに越したことがない。 それが覚りである。

知恵の輪を解いた人はそれがまぐれで解けたとは思わないであろう。 実力で解いたと思うからである。 覚りもまぐれではない。 覚者は、因縁によって覚っ たのであると知るからである。 道を歩む人は、もちろん最初のうちは右も左も分からないであろう。 それでも真実を知ろうと熱望するならば自ら為す精励に よって道を見い出すであろう。 そしてついに解脱するのである。

覚りに至るこの一なる道は果てしなく広大で平らかである。 それゆえにどんなに聡明な人でも進むべき方向を見失うことがある。 周りの動きに迎合したとこ ろでそれが正しい方向とは限らない。 しかし、道を求める人は正しい方向を自ら見い出す。 羅針盤は各自の心の中にあるからである。 こころある人は自分 自身を信じて精進せよ。

それでも不安を感じる人は地図を開き道を尋ねるがよい。 正法が地図である。 道の人に尋ねるならば快く適切に問いに答えてくれるだろう。 如来に問うてもよい。 現代では直接聞きに行くことも、電話で話をすることも、メールで問うことも、掲示板で尋ね求めることもできるからである。


  − 記 −

ハンドルネーム: SRKWブッダ

本名: 白川英一(シラカワ エイイチ)
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