【如来は誰もが覚り得ると説くが...】

如来は誰もが覚り得ると説く。 しかし、如来は誰もが覚るとは説かない。

如来がこのような微妙な言い方をするのには理由がある。 それは善知識の出現の事実にもとづくことである。 すなわち善知識がこの人からはとても発せられないだろうと思えるような人の口からも意外に発せられることがあるのを知って、如来は誰もが覚り得ると説くのである。

もちろん、如来は善知識が誰の口からでも発せられるわけではないことを知っている。 善知識はあくまでも因縁によって人の口を借りて世に出現するものであるからである。 つまり、すべては因縁によっていて如来といえどもその出自出現を予見することはできないのである。

ところで、覚ろうとする人は如来でさえも予見できないものを自分の力だけで見いださなければならない。 しかも善知識の出現は世に稀有である。 それゆえに人々(衆生)が覚ることは容易ではないと言う。 しかしながら、心構え正しき人はそれをまるで容易に為し遂げる。 たとえば知恵の輪に取り組む人の中のある人が、あっという間にそれを解いてしまうようなものである。

知恵の輪を手に取ることなく眺めているだけではとても解くことはできない。 手にとって真摯に取り組んでこそ知恵の輪を解くことができる。 覚りに至るこの一なる道もそうである。 漫然としていてはとても解脱することはできない。 覚りに至る実践をしてこそ次第次第に覚りに近づきついに解脱するのである。

知恵の輪は、それが解けるということが分かっていれば充分である。 覚りは、誰もが覚り得るということが分かっていれば充分なのである。 こころある人は正しい信仰によって自ら解脱せよ。