【諸仏は人々に宝を渡そうとしている】

何かを得ようと思えば、別の何かを犠牲にしなければならない。 世人はそのように考え、たとえそれがこの世に二つとない無上の宝を得ることであっても恐れおののき二の足を踏む。 しかしながら、にわかには信じられないかも知れないが、その最上の宝は何の犠牲もなく、極わずかな対価もなく得られ、それどころか沢山の好ましい副産物さえ伴ってもたらされるものである。 しかもこの最上の宝を得るためには何の資格も要らず、また特別な素質も何一つとして必要としない。 すなわち、こころから望めば誰もがこの最上の宝を得ることができる。 このことを如実に知って、もろもろの如来は人が覚ることを勧めるのである。

さて、ここに長者の息子(娘)がいたならば、かれ(彼女)はただ長者の子であるというだけでその長者のすべての財産を引き継ぐことができるであろう。 このとき、財産を引き継ぐ息子(娘)が何者であるかは一切問われない。 それと同じく、ここに人があれば、かれ(彼女)が人であるというだけで諸仏のすべての財宝を引き継ぐことができる。 その財宝とは、覚りや解脱や智慧や円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)のことである。

諸仏は、長者が我が子に財産を譲ろうとするように、人々(衆生)に無量、無辺、無上の宝をひとしく渡そうとしている。 しかしながら、人々(衆生)は自分にはその資格が無いと思い、またそれを受けるに耐える素質に欠けていると思い込んでいて容易にはその宝を受け取らない。

ところで、病人が病人のままでいたいと思うならばそれこそが最も重い病である。 子どもが、ずっと子どものままでいたいと思うならばそれこそが何より子どもじみたことである。 そして、人々(衆生)が衆生のままでいることに満足して仏になろうとしないならば、それこそが一番愚かなことである。

健全で、ためになることで、しかも容易にできることを敢えてしない。 それこそが慳みの最たるものである。 ケチな人間は、真実最高の宝を得ることができない。 かれ(彼女)の目にはその無上の宝が宝には見えないからである。 その愚をさとって、こころある人は塵を離れ汚れを捨て去って、諸仏が人々に渡そうとしている真実最高の宝を我がものとせよ。 この真実最高の宝を得たならば、一切の苦悩が終滅し、憂い無く、しかもその宝はいかなる盗賊にも決して奪われることがないからである。 この宝は使い切れないほど豊かである。 この宝は時を経ても決して褪せることがない。 この宝は軽々と扱うことができ、つねに携帯しても何の重荷にもならないものである。 この宝は誰にでも手に入る筈のものである。

世人が、自分の器をこえたおびただしい財宝を得たならば気が狂ってしまうだろう。 しかし、この真実最高の宝は決してそのようなことにはならない。 それは人の心を落ち着かせ、怒りを静め、身体を安んじるものである。 それは賢者達に無上の安らぎ(=ニルヴァーナ、=安穏)であると伝えられるものであるが、それはまさしく真実なのである。


[補足説明]
法華経方便品第二には次の一節がある。

 {前を略} 今の私もまたこの様である。生ける者達を安らかにする為に種々の教えによって仏道を説き示した。 私は智慧の力によって生ける者達の現在の願いと過去の習性とを知り、方便して諸々の教えを説き、皆、歓喜せしめ得た。 舎利弗よ、正に知れ。 私は仏眼によって観察して、六つの世界にある生ける者達を見るのに、貧窮していて福徳智慧がなく、生死の険しい道に入り、苦しみは連続して断える事がない。 深く五欲に執着すること、野牛が尾を巻きこんで大事にする様である。貪愛によって自分を蔽い、盲目となってなにも見えず、偉大な力のある仏を求めず、苦を断ち切る教えを求めない。 深く諸々の邪見に落ち入って、苦によって苦を捨てようとする。この様な生ける者達であるから、私は彼らに大悲心を起こした。 私は始めて道場に坐って、樹を観察し、また歩きまわりつつ、三七日の間、この様な事を考えた。 「私が得た処の智慧は微妙であり、最第一である。しかも、生ける者達の諸根は鈍重であり、楽に執着し、無智のため盲目となっている。この様な者達をどうして救おうか」と。その時、諸々の梵天王と、諸々の天帝釈と、世を護る四天王と、大自在天と、並びに、余の諸々の天人達と、百千万の部下の者らは、恭敬し、合掌し、礼拝して、私に教えの輪を転ずる様にと請うた。私は自分でこう考えた。 「もし、ただ仏の立場のみを讃えたなら、生ける者達は苦しみに沈み、この教えを信ずる事は出来ない。 彼らは教えを破り、不信の故に三悪道に堕ちるであろう。私はむしろ教えを説くことなく、速やかに永遠の平安に入ろう」と。 ついで、過去の仏が行なった方便力を想い、「私が今得た処の道もまた、正に三つの立場として説こう」と、 こう考えたときに十方の仏は皆、現われて、清らかな声音で私を慰めた。 「よいかな、釈迦族の聖者よ、第一の導師よ、あなたはこの無上の教えを得られたが、諸々の一切の仏に随って方便力を用いられる。 我らもまた、皆、最第一の教えを得ているが、諸々の生ける者達の為に三つの立場に分って説くのだ。小智の者は小さい教えを願い、自分が仏になるとは信じない。 この故に方便によってよく考えて果報を説く。また三つの立場を説くとはいってもただ菩薩にのみ教えるためである」と。 舎利弗よ、正に知れ。私は聖なる獅子の深遠、清浄、微妙な音声を聞いて、喜んで南無仏と称えた。 また、この様に思った。 「私は濁った悪しき世に出たのであるから、諸仏の説かれた通りに随順して私もまた行なおう」と。 こう考えて私は、バーラーナシーに赴いた。生滅変化を超えた、存在の寂静の相は言葉で説明の出来ないものであるから、方便力によって、五人の比丘に説いた。 これを転法輪と名づける。こうして永遠の平安とか、尊敬さるべき人とか、教えとか、僧団とかいう言葉があらわれた。 「永遠の昔からずっと、永遠の平安についての教えを讃え示して、生死の苦しみを永くない様にするのだ」と、私は常にこの様に説いた。

 舎利弗よ、正に知れ。私が仏の子らを見るのに、仏道を願い求める者は無量千万億であり、悉く皆、恭敬の心をもって仏の処にやって来て、かつて諸々の仏が方便して説く教えを聞いた。 そこで私はこう思った。 「如来が出現するわけは、仏の智慧を説くためである。そして今こそ、その時である」と。 舎利弗よ、正に知れ。機根が鈍く、小智である人と、現象に執着して高慢な者とは、この教えを信ずる事が出来ない。 今私は喜び、畏れる処なく、諸々の菩薩の中において、正直に方便を捨てて、ただ無上道のみを説く。 菩薩はこの教えを聞いて、疑いは皆なくなり、千二百人の尊敬さるべき人達も、悉くまた仏となるであろう。 過去・現在・未来、三世の諸仏が説かれた通りに、私もまた、今、分別を超えた教えを説こう。 {後略}