【思いついたことによって解脱することは無い】

たとえば知恵の輪が、何か思いついたことによって直接に解けるようなものであるならば、それでは解けたときに「解けた」という感動を味わうことはないであろう。 そして「解けた」という感動を味わったのでなければ、知恵の輪を解いたとは言えないのである。 それと同じくこの一なる道においても、何か思いついたことによって直接解脱できるのであるならば、それでは解脱したときに〈特殊な感動〉を味わうことはないであろう。 そして〈特殊な感動〉を味わって解脱したのでなければ解脱したとは言えず、実際にも解脱してはいない。

ところで、もし人々(衆生)が何か思いついたことによって直接に解脱できるのであるならば、多くの人が容易に解脱を果たしているだろう。 覚りに至る修行と称していろいろなことを思いつき、実行する人々は過去にも現在にも少なくないからである。 まして釈尊以来のこの二千五百年間に広く衆生世間に流布喧伝されたようないわゆる仏教的なことがらや観念、あるいは修行法によって直接に解脱を生じ得るのであるならば、もっと沢山の人々がすでに解脱しているに違いない。

しかし実際には解脱を果たす人は稀である。 この二千五百年間を通じても覚りに達した(=慧解脱した)のは僅かに十人程度であろうと推定されるからである。 と言うのは、歴史や遺物の中にある覚者の痕跡は余りにも少なく、伝わっている経典の数とその内容から仏の数を類推するしかない。 私見によれば、十人程度、あるいはもっと少ないかも知れない。

このことは、解脱することが著しく困難であると主張するものではない。 もちろん如来が真実を説かなかったということでもない。 ただ、人々(衆生)は自分勝手に見なし、思いつき、思い込んだものにこだわって如来の説くところのもの(=正法)を信じることができず、解脱しないのである。

聡明な人は迷妄の所産を捨てよ。 衆生が、自らこだわったものによって解脱することは無いと知って世の一切のこだわりを離れよ。 自ら想起したものでも世間に流布されたものでも、人々(衆生)が考えて思いついたことによって解脱することはないからである。 もろもろの如来の言葉を聞いて信仰を起こし、自らのこころに問うて道を見い出し、因縁を生じて、そうして究極の境地(=ニルヴァーナ)に到達せよ。

覚りに向かうこの一なる道は、過去・現在・未来において世界に存在するどの宗教とも似ていないものである。 世に出現するあらゆる宗教は宗教に過ぎず、人を解脱せしめる教えとはならないからである。 宗教は静けさに役立たないものである。 宗教は安らぎに至る道とはならない。 いとも聡明な人が、異教に誘われることなくこの一なる道(=仏道)を見い出し、精進して、ついにこの円かな安らぎに到達するのである。


[補足説明]

慧解脱:

○ 師は答えた、「ウバシーヴァよ。 あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱(慧解脱)>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」(スッタニパータ 引用:中村元氏訳)