【布施・供養と覚りの完成】

このサイトの継続に供するため、寄付を募ることにした。 できれば自力で継続したいのであるが、さすがに難しくなってきた。 一部の人々だけに負担をかけることを避ける意味でも広く寄付を募る方がよいと判断した。

私という如来が世に出現したからかどうかは定かではないが、国の仕組みも昨今大きく変わってきたとは感じている。 弱者を支援するための諸策が施行されつつあり、子ども手当や高校の無償化など我が家にとっても有り難い変化が現れてきた。 しかしそれでもこのところさすがに立ちゆかなくなっている。

もちろん、これまでの数年にわたる超低空飛行な経済活動においても、私の如来としての活動に賛同してくれた人々からの沢山の支援があった。 それがあってこのサイトがここまで継続できたことは間違いない。 この場を借りてお礼を言いたい。 そしてそのような人はすみやかに目的(覚り)を遂げて欲しいと思う。

ただし、如来への布施・供養がそのまま功徳になるとはとても言えない。 もちろん、布施・供養が覚りの邪魔になることは決してないが、そんなことをしなくてもおそらく覚る人は周到に覚るからである。 事実私もそうだった。 遠い過去世のことはわからないが、少なくとも今世において如来に布施をしたことはない。 覚り以前の私の眼前には如来がいなかったからである。 それでも私はまっすぐに道を歩んで、それ以上になく周到に覚りに達したと感じている。 すべては後づけで分かることがらである。 42歳で覚るというのは遅いのかも知れないが、私には丁度よかったと思えるのである。

ところで、覚り以前においてもし私の眼前に如来(生き仏)が居たならば私は布施・供養しただろうか? それは結構あやしい。 したかも知れないし、しなかったかも知れない。 どちらかと言えばしたと思うが、断定的には言えない。 これが偽らざる感覚である。

つまり布施・供養しようと思う心と、覚りの完成との間には明確な関係が認められない。 覚りがお金では買えない所以である。 そもそも覚りに必要なものは真実を知ろうとする熱望である。 ただそれだけでよい。 それがあるならば私のこのサイトも見る必要がない。 いとも聡明な人は、誰に頼ることなく自ら善知識を見い出して覚るに違いないからである。