【如来は人々が解脱することを疑わない】

自分だけが知っていると考えている間はとても覚ることはできない。 実は、そんなことは皆知っているからである。

皆が知っていることだからと言っても、それを真に理解している人は少ない。

理解している人がいるとは言っても、それを実践している人は少ない。

実践している人があるとは言っても、その真髄を体現している人は少ない。

その成果を何某か体現していると思い込んでいても、それを達成している人は少ない。

その道を達成していると自負していても、解脱している人は稀有である。

ところで、すでに解脱したもろもろの如来は次のように思うのである。

私が解脱できた以上、誰しもが解脱できるに違いない。 誰しもが解脱できるに違いないからには、誰しもがこの一なる道を達成できるに違いない。 誰しもがこの一なる道を達成できるに違いないからには、誰しもがこの果報を体現できるに違いない。 誰しもがこの果報を体現できるに違いないからには、誰しもがこの仏道を実践できる筈である。 誰しもがこの仏道を実践できる筈であるから、誰しもが理法を理解できることは間違いない。 誰しもが理法を理解できることは間違いないことであるから、誰しもがこの真理のことばを知ることができるであろう。 誰しもがこの真理のことばを知ることができるのであるから、自分だけがそれを知っていると考え誇るものは一人としていないであろう。 妄念に陥ることがない人々は自らを誇ることなく聞く耳を持ち、自分より弱い人の言葉を恕(じょ)して世に稀有なる法の句を聞き、自らの因縁によってついに解脱するであろう。

それゆえに、もろもろの如来はすべての人々が解脱することを信じ、疑うことがないのである。