【吉報】

信じているということは疑わないということである。 疑うならば信じてはいないのである。 私は、電話や手紙でどんな知らせが来てもそれらが皆吉報だと信じて疑わない。 『この知らせがこのようであってよかった。 この知らせがこのようでなくて(つまり思っていた通りで無かったのも)よかった。』と思うのである。 したがって、知らせの内容を見もしないうちからそれが不吉な知らせかも知れないと予め疑ってかかる人は覚者ではなく、菩薩でもない。

疑惑者は、自分自身によって自分自身を滅ぼしてしまう。 彼は信仰に欠けるところがあるからである。 彼は、吉報が来たのにそれが不吉な知らせだと誤解して自分で自分を死地に追い込んでしまう。 息子に幽閉されたビンビサーラ王が、家臣達の嘆願によってそれが解かれ、その吉報を大勢の家臣達が喜びいさんで持って来たのに、その喜ばしい声が自分を殺しに来た執行人の雄叫びだと誤解して頓死したようなものである。 疑惑者は、電話の呼び出し音や玄関の呼び鈴の音を聞いてそれに怯えるであろう。 しかしながら、もろもろの道の人はその同じ音を楽しい知らせの前触れたる鳴り物であると聞く。

疑惑者は解脱することができない。 他の誰かが出し抜くのではなく、自分自身で自分の解脱の機縁を反故にしてしまうからである。 その一方で、信仰篤き人は他の人々の解脱を優先しようとさえするが、かえって自分自身が先に解脱してしまう。 そして、かれは覚りの因縁の不可思議を知るのである。