【空・空観・無相・無相をも作為しない解脱】

空とは、あったものが無くなったことを指す言葉である。 したがって、空とは最初から何もないという意味ではない。

人が、空を観じるならばかれは覚りの境地を微かなりとも覚知するに至る。 このため、空観によって覚りに到達しようとする者が現れるのは無理からぬことである。 しかしながら、空観の延長上には覚りは存在しておらず、それだけでなくいかなる恣意的な観によっても覚りは生じない。 なんとなれば、総じて観とはたとえば受験勉強の如きものであって、それは真の勉強とは違うようなものであると知られるようなものであるからである。 もちろん、入学試験に合格しなければ真の勉強の機会は与えられない。 勉強の機会が与えられなければ真の勉強をすることは難しい。 そのような仕組みが絶対的に確立されていて、他の手段を選択する余地がないときに限り、受験勉強は真の勉強を達成しようとする動機の具体化方法として成立している。 それと同じく、観は解脱の機縁を生じるための一つの確かな方法として一応の成立を見るが、観それ自体に取り憑かれてしまってはとても覚ることはできない。

また、ここで空と無常とは別のものであると知られる。 人は〜この世のことがらは無常であるという真理〜によって苦の消滅を達成できる根拠を得るのであるが、空とは作為してあったものが無くなったに過ぎないからである。 すなわち、人ははからずも世に作為された煩いを観によって空せしめ、そのようにして得られた空に住することはできる。 しかしながら、人はいかなる観によっても無相について空住することはできない。 なぜならば、無相を空ならしめることはただ解脱によってのみ達成されることであると知られるからである。 そして、この解脱は因縁によってのみ生じるものである。 このとき、空観の完成者であるに越したことはないが、それは絶対的な必要条件とは認められない。

ところで、空観は覚りに向けた完全な修行法として成立していないだけでなく、別に重大な危険を孕んでいる。 それは、空観によって達成される段階的境地である無所有処や非想非非想処に到達した(=陥った)とき、ある人々はそれがニルヴァーナであると勘違いを起こし、抜け出すことができずについに解脱しないからである。 たとえば、麻薬の常習者がひとときの異常な快楽に浸りながら次第に恐ろしい苦しみに陥り、しかもそれから抜けだそうとするのであるが容易には抜け出すことを得ず、ついには正常な精神状態を取り戻すよすがそのものを無くしてしまうようなものである。 空観も、人によっては常習性(嗜癖)を生じやすい性質がある。

このように空観は、覚りを目指す方法としては広く勧めることは出来ない。 それどころか、空観は多くの場合安らぎを得ることとは逆の結果を生じてしまうことになりやすいものである。 それはたとえば、健康な身体をつくろうとしてスポーツに勤しむ人が、過度のスポーツ熱にあてられてしまい、ついには身体を壊してしまうようなものである。 実に、健康な身体をつくるにはスポーツなどの極端な方法よりも、日常的な運動による方が結局は賢明ですぐれていると言えるであろう。 それと同じく、人の覚りは省察することや徳行にいそしむこと、また真実を知ろうと精励することによることが確かですぐれており、空観による方法はそれらに比べて拙く、脆く、はるかに劣っていると言えるのである。

スポーツに勤しむ人が、健康的な身体をつくるという当初の目的を忘れて、ただ勝敗にのみこだわってしまうようになることがあるように、中途半端な修行法は利益(りやく)が少なく害が大きい。 それらは安らぎを体現するという目的を見失い、手段を選ばぬものに堕してしまうおそれがつきまとうからである。 それゆえに、いとも聡明な人は、そもそも空観などの安易で危険な修行法に取り憑かれたりしないのである。

ところで、人は、無相なる心を体現したとき間違いなく観(=止観)を完成させている。 それは無所有処や非想非非想処をも超えた覚りに似た境地である。 それどころか、一種の覚りであると言ってもよいくらいである。 しかしながら、これは真の覚りではない。 真の覚りは、無相をも作為せず、無相さえも空とした境地であるからである。 それゆえに、修行者は真の覚りに達するまでは決して油断してはならない。 人が無相なる心を我がものとしたとき、しかしかれがこれに住することでよしとせずさらに真実の覚りを求めるならば、かれはただちに解脱して真の覚りを達成するであろうからである。 そして、このときかれは真実の覚りを求める道程の確かな終焉を見るのである。