【自分自身のあり方】

ある掲示板に、次のような書き込みをした人があった。

> 他の人のあり方を知ることは勉強になります。 しかし、反応を見て相手を知ろうとすることは、しなくてもいいのだと思いました。 <

これを感想ではなく、問いであるととらえるならば、この問いには次のように答えなければならない。

この世のことがらにおいてどんなことであろうと、他の人のあり方を知ろうとすることは何の勉強にもならない。 それらは、安らぎに役立つものではないからである。 ただ、他の人のことであれ自分自身のことであれ、この世で起きたことがらについて省察し、以て人と世の真実を知ろうとするならば、それはかれの安らぎのよすがとなるものであり、学識を豊かにする確かな機縁となる。

相手の反応を見て何かを知ろうとしても、それでは何一つ正しく知ることはできない。 それは、暗闇を見ようとして灯りをつけるようなやり方であるからである。 見えたと思ったものはすでに異なったものである。 しかしながら、人は漆黒の暗闇を全く見ることができないというのではない。 真に眼が利く人は、漆黒の暗闇をそのままに、如実に見るからである。 かれは、自分自身の眼を信じて疑わない。 同時に、かれは自分自身の眼に決して裏切られない。

それと同じく、衆生も安らぎを垣間見ることはできる。 そのかすかな知見が、人々(=衆生)を覚りへといざない、ついに解脱せしめてこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至らしめるもといなのである。

安らぎに至る道は、広大で平坦である。 聡明な人は、決して道に迷うことはない。 しかし疑惑あるもの、愚かな者は道に迷う。 疑惑ある者は、自ら眼をつぶっておきながら手探りで道を歩もうとするからである。 また愚かな者は、自分から目隠しをして、しかも盲に手を引かれて道を歩もうとさえする。

こころある人は、他ならぬ自分自身を信じ、自らの明知によってことの真相を見極めよ。 下らないことに道草を食うことなく、学識豊かな人々とつきあい、互いの学識を高めつつ、真っ直ぐに歩んで共にこの究極の境地へと到達せよ。 そこに至ったとき、もろもろの如来のことばには何一ついつわりが無かったことを知るからである。