【言葉と音声】

諸仏が世に出現するとき、それは音声の形をとって現れる。 そして、その出現した音声を言葉として聞き、その言葉の真実の意味(すなわち正法が世に顕わになったこと)を明らかに知ったならば人は直ちに解脱する。 これが、解脱を生じるときにまさしく起こることがらである。

したがって、音声の形をとって世に出現した諸仏の言葉を音声として聞いてはならない。 音声の形をとって世に出現した諸仏の言葉を、まさしく言葉として聞く人だけが解脱するのであるからである。

すなわち、音声に誘われることのない人が真理を体得するのである。 その一方で、外見によってその人(善知識)を測り、音声によって何が起きたのかを尋ね求める人は、情に流されているのであり、あるいはまた物を欲しがるように仏を求めているのであって、諸仏出現の真実とその言葉の真意を知ることがない。

たとえば、「珍味」という言葉を知っていてそれを安易に口にしつつ美味を求める人が、本当の美味について理解することがないようなものである。 なぜならば、本当の美味とは毎日それを食しても決して飽きのこないもの(いわゆる主食)を指すのであり、珍味のような舌一枚の楽しみは真実の美味とは似て非なるものであるからである。

それと同じく、音声に誘われる人は諸仏の言葉を耳にしてもそれ聞くことができないのである。

なお、このことは覚りに関するあらゆる言葉や名称について同様に言えることである。 それゆえに、円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)を求める人は、解脱とか覚りとかニルヴァーナとか善知識とか修行とか観(=止観)とかの言葉や名称を耳にしても、それらそのものにこだわって覚りを求めてはならない。 それぞれの言葉や名称の意味や意義を力ずくで追求することが修行であると決して見なしてはならない。 真実の言葉は、それをこころから求める人の前に粛然として出現するのであるからである。