【ここは銀座?】

たとえば、聡明な人は「銀座」という賑やかで華やかな場所があると知り、その様子を聞いたならば、銀座は本当に存在していて実際に賑やかで華やかな場所であると正しく理解する。 彼が銀座に行こうと思いたち、銀座を目指して歩むならばついには銀座に到着するであろう。 そうして、彼は銀座の賑やかさと華やかさを自分の目で確かめるのである。

しかし、暗愚な者は、同じ話を耳にして同じように銀座に行こうと思いたち、実際に行こうとするが、その歩みの途中でどこかの田舎町にある「○×銀座」という商店街に立ち寄ったとき、彼はその場所こそが話に聞いた銀座であると誤解する。 なんとなれば、彼の目にはそこは充分に賑やかで華やかな場所に映るからである。 そうして、彼は道の歩みを止めてしまうかも知れない。 しかし、それでは彼は本当の銀座へは行き着かないことになる。

覚りの道も同様である。 覚りに達したと思っても、汚れが完全に消え失せないうちは油断してはならない。 人がまさしく覚りに達したときには三種の明知を生じ、汚れが完全に消え失せたことを如実に知るからである。