【止(シャマタ)と観(ヴィパサナー)および定慧】

たとえば絵を描く場合、色と形の両方をきちんと描かなければならない。 人間はモノクロではなく色を識別するものであるし、またある種の錯覚として知られているように線が無いのに線を引いてまでその形を認知しようとする認識作用の働きがあるからである。 したがって、色だけ追求してよい絵が描けるとは言えず、また形だけの追求によってよい絵が描けるとも言えないのである。

止観は、止(シャマタ)と観(ヴィパサナー)の両方が同時に、対等にあってこそ人の覚りの道を演出する機縁となる。 したがって、止(シャマタ)だけによって覚れるとか観(ヴィパサナー)だけによって覚れるという主張は真実ではない。

また、たとえば電磁現象は電界と磁界が互いに相補的に存在して起こる現象である。 電界があるとき同時に磁界が存在し、磁界が存在するときには必ず電界が発生する。 これらは切り離して単独で存在することはできず、存在が認められるときには必ず両方が現れる。 そして、このとき条件と整うと電界は電流として検知され、磁界は力になって感知されることになる。 つまり、電磁現象が陰なるものであり、陽には電流と力が分かりやすい現象として世に出現するのである。 それと同じく、止(シャマタ)と観(ヴィパサナー)はそれが体現されるときには必ず同時に現れるものである。 そして、敢えて言えば、いわゆる陰なる止(シャマタ)と観(ヴィパサナー)の両方が完全に完成したとき、止(シャマタ)は定となり観(ヴィパサナー)は慧となって陽に認知されることになる。 したがって、陰なる観(=止観)を完成させた覚者には陽に定慧が体現されるのである。

ところで、止(シャマタ)も観(ヴィパサナー)も衆生がそれぞれを単独で論議すると覚りに向けたいわゆる修行の機縁とはならず横道に逸れやすい性質の言葉である。 それゆえに、もろもろの如来はあえて精確さを欠いてもこれらを総じて「観」と呼ぶ。 なんとなれば、人々が観(ヴィパサナー)を行ってそれによって止(シャマタ)を生じ完成させる道を自分で切り開くことは可能性が高いが、止(シャマタ)によって観(ヴィパサナー)を実践することはおそらく難しいからである。

こころある人は、真実の真相を知って名称(nama)にとらわれることなく、観(=止観)を完成させて、以て解脱の機縁を生じ、自らの因縁によってついに解脱せよ。